an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

シナイ山の位置に関する記事の紹介

 エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、モーセを通して神の律法を受け取った場所が、シナイ半島ではなく、アカバ湾の東側の地であったという、非常に興味深い主張。

 イスラエルの民が渡ったとするアカバ湾の海底にあるエジプト軍の車輪の写真など、かなり衝撃的であるが、地理座標や深度などの学術的調査データによる裏付けが必要だろう。

 WEB上では同じような主張をしている英語サイトが無数にあるが、どれも情報源はワイアット氏のもののようである。

 

 以下のサイトは上述の意見の反証記事の一例。 

 ただこの記事においても、反駁すべき点が何点かある。例えば、「間違った前提 その3」の箇所で、以下の聖句を基に検証している。

ガラテヤ4:25

このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。 

  旧約聖書のギリシャ語訳がエジプトのゴシェンのことを「アラビアのゴシェン」(創世記45:10;46:34)と訳していたり、紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスがナイル川の東を「アラビア」と呼んでいる文献などを引用し、現在のシナイ半島がアラビアと呼ばれていたこと立証しているが、それならば紀元前168年ー紀元106年に存在したナバテア王国の領域についても考慮する必要があるだろう。

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 それはちょうど使徒教会時代とも重なる時代をもち、実際に新約聖書にはナバテア王国のアレタス四世(紀元前9年ー紀元40年)に関する言及もある。

Ⅱコリント11:32-33

32 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが、 

33 その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。

 以下は、ウィキペディアのナバテア王国の日本語ページにある記述を一部引用したものである。

紀元前9年から紀元後39年にかけてのアレタス4世の時代にはその領土をダマスカスからヒジャーズ地方までの砂漠周辺部とネゲブ地方まで広げ、メソポタミア、南アラビアから地中海にいたるほぼ全ての隊商路を掌握した。アレタス4世の娘はヘロデ朝の君主であったヘロデ・アンティパスに嫁いでいたが、ヘロデが娘と離縁してヘロデヤと婚姻したことからユダヤに侵攻してヘロデ軍を打ち破っており、この事件はイエスの洗礼を行った洗礼者ヨハネの死の原因ともなっている。

また、新約聖書のコリントの信徒への手紙二にはアレタス4世がダマスカスにおいてパウロを捕縛しようと試みたことが記されており、ローマの市民権を有するパウロをローマの属国であったナバテア王国が捕縛しようとしたことから、ユダヤ人がナバテア王国において影響力を有していたと考えられている。

(ヒジャーズ地方とは、アラビア半島北西部の紅海沿岸地方)

 つまり使徒パウロが「アラビア」と書いた時、シナイ半島が含まれていた可能性は十分あるが、それはシナイ半島「だけ」を意味していたわけではなく、アカバ湾東側沿岸部を含めたアラビア半島の一部の領域も念頭にあったと考えるべきであろう。

 また使徒パウロとほぼ同時代の一世紀のユダヤ人著述家フラウィウス・ヨセフスは、シナイ山がミディアンの地にあり、「その地方で一番高い山である」と記述している(『ユダヤ古代誌』Ⅱ11.2-12.1参照)。ちなみにシナイ半島のシナイ山(2285m)は地域で一番標高の高い山ではなく、近くにあるカテリーナ山(2629m)の方が高い。そしてアカバ湾の東部地方、所謂「ミデアンの地」では、ヤベル・アル・ラワズ山(2580m)が一番高い。

 また上述の記事の「Eleven Days to Kadesh Barnea」には、申命記1:2「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。」を引用して、「It would be impossible to march more than 2 million Israelites through the difficult terrain from Jebel el-Lawz to Kadesh Barnea in the allotted time. 200万人以上のイスラエル人が、割り当てられた時間内に、ヤベル・エル・ラワズからカデシ・バルネアまでの困難な地域を通って歩くのは不可能だろう。」と主張している。

 しかし地図を見れば確認できるが、ヤベル・エル・ラワズの裾野のアル・バドからアカバ湾北端のエイラトまで166KM(サウジアラビアとヨルダンの二国間の国境を超えるためか、徒歩による経路計算はできなかった)だが、シナイ半島のシナイ山から同じエイラトまでは191KMで、30KM近く距離が長いのである!

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 そしてエイラトからカデシ・バルネアまで直線的な近道で197KM、標高差1000mである。しかし聖書は「セイル山を経てカデシュ・バルネアに至る」とあるので、ヨルダン・バレー沿いのよりアップダウンが緩やかな道で遠回りしたと思われるが、それでも250KM弱である。

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 合計し約410KM。11で割ると、一日約37KM。私は「十一日かかる」という表現が、200万人以上の人間の移動を考慮した数字ではなく、「三日の道のり」(出エジプト8:27)のように、単純に大まかな距離を表現していると解釈するが、いずれにせよ、もしそれが不可能だと言うならば、シナイ半島のシナイ山からの道程の方がさらにその可能性は低いはずである。

  調べ始めると確認すべきことが無数に噴き出してきりがないので、とりあえず一旦中断し、検証が進み次第、随時追記という形で書き加えていこうと思う。

 

追記1(2018年4月15日)

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 この航空写真は、アカバ湾にはり出すようにあるヌエイバの砂浜を撮ったものである。涸れた川による渓谷Wadi Watirが、地帯における海への一本道となっていることがよくわかる。

 興味深いのは、以下の聖句において、パロから逃げるイスラエルの民に主なる神は「海の傍らに宿営しなさい」と命じたことで、それはパロにとっては「荒野に閉じ込められている」状態に思えた、という点である。

出エジプト14:1-3

1 主はモーセに言われた、 

2 「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。 

3 パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。 

 ピハヒロテ【פִּי הַחִרֹת  pı̂y hachirôth】とは、「mouth of the gorges 渓谷の口」という意味をもつ。確かにヌエイバの砂浜から見れば、そこは「険しい渓谷の入り口」を成している。

 またミグドル【מִגְדֹּל    מִגְדּוֹל migdôl    migdôl】は「塔、やぐら」という意味で、砂浜の北側にあったエジプトの要塞のことを指しているのではないかと考えられている。

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 28KM²の広さならば、男子だけで約六十万人いたという群衆でも宿営できたのではないだろうか(想像するのは難しいが)。

出エジプト12:37-38

37 さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。 

38 また多くの入り混じった群衆および羊、牛など非常に多くの家畜も彼らと共に上った。 

 前述のフラウィウス・ヨセフスは、「近づきがたい絶壁と海に囲まれた」「山が海に繋がっているところ」(『ユダヤ古代誌』Ⅱ324、325参照)と表現している。


THE EXODUS EXPLORED—Nuweiba Beach

 また列王記では、アカバ湾が「葦の海」と呼ばれているのも、注目すべき点である。

Ⅰ列王9:26

また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエラテに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けた。

 地理的に考えて、民数記21:4の「葦の海」はエドムの地に隣接していたアカバ湾のことであろう。

民数記21:4

彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、