an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子イエス・キリストという名の充溢(4)

ルカ8:40-48

40 イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。 

41 するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。 

42 彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。

43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。

44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。

45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。

46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 

47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 

48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ。」

 ここで主イエスは「私は、私を触った者に癒しの力を注ぎ出した」とは語っていない。御子のうちに満ち満ちていた力が出て行ったのを感じた、というのである。当然、御子はこの貧しい女性の必要を完全に知っておられたはずだが、御子の言葉には、まるで彼の意思を越えて力がこの女性に注ぎ出たような印象である。

 確かに御子は大変緊急な事態にいた。会堂司のヤイロの娘が死にかけており、一刻の猶予も許されない状態だった。普通の人間だったら、その緊迫した事態を対処するために全て意識を注ぎ、他の事には気が回らなくなるところである。

 しかし無限の神の恵みは、人間が置かれている状況の質によって変化することはない。つまり状況が切迫しているからそこに集中して注がれ、他のところには制限される、というような性質のものではないのである。神の恵みは御子の内で途切れることなく充溢し、御子を通して絶えず「外へ向かって」「低きに向かって」豊かに溢れ出ている、ということである。

ヨハネ1:14、16

14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 

16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 

 そして、もしこのエピソードの長血に苦しんでいた女性のように、御子に対して心を開き、助けを求める手を差し伸ばすのなら、誰に対しても、どのような状況においても、その恵みの力は豊かに降り注ぐことを示している。

 溢れ出る泉から水を汲み飲んだ人は、決して「自分が地中から水を汲みだしたから飲めたのだ」とは考えないだろう。彼はただ単に、溢れている水にコップを差しだし、その水を飲んだだけである。同じように、私達が信仰によって神の祝福を「引っ張り出す」のではない。すでに豊に溢れ出している祝福を、信仰によって認め、受け取るのである。

 また「私より神様の愛や力を必要としている人はたくさんいるから、まずその人たちのために祈ります」という、一見とても謙遜で思いやりのある考え方をする人がいるが、御子のうちに充溢する力は、そのような「人間的な配慮」が全く必要ない程、豊かであり、私達が「それほど重大ではない」と自分で勝手に判断する状況の本質を癒し、救うことができるのである。