an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

サラの「笑い」とイシマエルの「からかい」

創世記21:1-11(新改訳)

1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。 

2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。 

4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。 

5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。 

6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」 

7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」 

8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。 

9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。

10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」 

11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

 6節の「笑う」と和訳されている原語【יִֽצְחַק־  yiṣ·ḥaq-】は、9節の「からかう」【מְצַחֵֽק mə·ṣa·ḥêq】と共通の語根をもつ。一方が主なる神の約束の成就から生れる「笑い」つまり「喜び」を表しているのに対して、もう一方は「からかい、あざけり」のニュアンスをもち、偶像崇拝(出エジ32:6)や姦淫(創世39:17)、殺害(サムエル下2:14)などの状況に使われている動詞である。だから子供の無邪気ないたずらというよりも、「はしための子イシマエル」による「正妻の跡取り息子イサク」に対する妬みや憎悪を含む行為だったことが暗示されている。

 実際、聖霊の霊感を受けた使徒パウロは、このイシマエルとイサクのエピソードを引用しながら、「その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害した」と、「迫害」という概念を適用している。

ガラテヤ4:21-29

21 律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。

22 そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 

23 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 

24 さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 

25 ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 

26 しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。 

27 すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。 

28 兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。 

29 しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。

 この創世記のエピソードは、非常にリアルな教えを示している。信仰者が御言葉の約束の成就によって受ける喜びや、聖霊の実としての喜び、試練や困難の中にあっても静かに湧き上がる深い喜びのすぐ近く(それは同じ環境、すなわち教会や家庭であるかもしれないし、また私達自身の心の中かもしれない)には、地上的成功や実現から派生する喜びや、肉から来る喜び、さらに無邪気なベールで覆われた妬みや憎悪、悪意などが働くのである。

 使徒パウロはその霊的現実を念頭において、様々な書簡において、「御霊の実と肉の働き」「御霊の欲するところと肉の欲するところ」などを対比させて、御霊によって歩き、イエス・キリストを真の喜びとすることを命じている。

ガラテヤ5:16―26

16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 

19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 

21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 

23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 

24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 

25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 

26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

ピリピ3:18-20

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。 

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 

 ちなみに旧約聖書のギリシャ語LXX訳では、9節の「からかう」は、【παίζω paizō】が使われている。