an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

人知をはるかに越えたキリストの愛を知って

エペソ3:14-21

14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、

15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。

16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、

19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、

21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

 御子イエス・キリストの十字架の死は、私たち人類に対する神の無限の愛の顕れである。

ローマ5:8(新改訳)

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 まさに「人知をはるかに超えたキリストの愛(直訳:知識を超える愛)」の具体的な顕れである。

 しかし何と多くの場合に、私たちは自分たちの「知識」や「知恵」によって、その無限の愛に対して自分たちが勝手に描く境界線で囲い、「身動きとれないように釘で打ち付け」、人間の罪の中に閉じ込めようとしているだろうか。

 御子の愛の声が、罪びとの罵りや嘲り、呪いの声によって、聴き取れなくなることを許していないだろうか。

 キリストの愛が私たちの知識の限界を超えるのではなく、私たちの疑いが、諦めが、傲慢が、より優れている思う人間の知恵が、その境界線を越えて増幅し、私たちの心や兄弟姉妹の交わり、そして社会を蝕んでいく。

 「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さる」神の力は、「私たちが求め、また思うところ」によってすっかり制限され、束縛されていないだろうか。

 「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」。私たちの不信仰によって、キリストが私たちの心のうちで十字架に再び釘打たれ、身動き取れない状態になっていないだろうか。