an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊によって

イザヤ63:15-16

15 どうか、天から見おろし、その聖なる栄光あるすみかからごらんください。あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。

16 たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です。
(フリーソフトe-Swordの口語訳では、「あながい主」と入力ミスがあるので訂正が必要)

「あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。」

「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。 」(新改訳)


 この嘆きの声を主なる神にあげたのが預言者イザヤであったのは、非常に心を打つ。イザヤは若い時から預言者として召命を受け、50年以上の長い歳月にわたって、主の言葉を受け、民に忠実に伝えた、多くの預言者の中でも代表的な存在である。

 その働きの期間に、4人の王(ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ)が王位に就くのを見、また主なる神の警告通りにイスラエル北王国が滅びるという激変の時代にあって、神のしもべとして生き抜いた預言者であった。

 新約聖書において65回もイザヤが書き残した書から引用されていることは、彼が如何に神の御声に忠実であったかを示している。特に印象深いには、預言者が神殿の中で神の栄光の幻を見、セラフィムの賛美を聴いたことである。

イザヤ6:1-4

1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

 イザヤが神の幻を見た時に受けた御言葉を引用し、福音書記者ヨハネはその幻が御子の栄光を顕現であったと告げている。

ヨハネ12:39-41

39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」

41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

 つまりイザヤが神殿の中で見た主の栄光の幻は、受肉前の御子の栄光だったのである。
 イザヤはメシアの誕生や地上宣教を始めることになる場所さえ、預言として神から受けた。さらに、『第五の福音書』と呼ばれる程、実に克明にキリストの苦難と復活を描写したあの驚異的な53章の預言を書き記した。御子が受肉し、地上に遣わされる約700年前の預言である。

 このように、その長い働きの中で、神からの驚異的なメッセージを受けて書き記していたイザヤが、ここでは「あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません」と嘆いているのである。
 しかしそれでもこのイザヤの祈りは、私たちに二つの決して動かない点を示している。それはどのような状況であっても「主なる神は信じる者の父であること」、そして「主は永遠に信じる者の贖い主であること」である。

主よ、あなたはわれわれの父、

いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です。

 この不動の点は、御子イエス・キリストの恵みによって、信じる全ての者に対してより確かなものとなった。

ヨハネ1:12-13(新改訳)

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 

13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 

ローマ8:14-16

14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 

15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  

ガラテヤ4:4-7

4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 

5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。 

6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。 

7 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。 

エペソ1:3-5

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 

5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 

 私たちを神の子として贖ってくださった霊は、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫した後でさえも、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と祈り、父なる神に全てを委ね切った御子の霊である。

ルカ23:46

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

  だからこそ、私たちが今現在、身動きとれない厳しい試練のなかにいて、見捨てられた孤独に放り込まれ、神の声も聞こえず、神の御手も感じられなかったとしても、それでもなお、「父よ」と神の向かって叫ぶことができ、その叫びの祈りをあげる私たちの魂のうちには、十字架に架けられた御子の霊が確かにおられるのである。