an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の言を売物にせず

Ⅱコリント2:17

(口語訳)

しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。 

 

(新改訳)

私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。

 新改訳は、「売り物にする」と和訳されている【καπηλεύω kapēleuō】に「(飲食物・薬など)に混ぜる、品質を落とす」というニュアンスもあることから、「混ぜ物をして売る」と訳出しているのだろう。

 そもそも「神のことばを売り物にする」とは、ただ単に「神のことばを伝えることによって、結果として何かしらの対価を得る」ということだけを示しているのではないだろう。その対価は経済的であったり、倫理的・精神的、つまり第三者からの評価・称賛だったりするかもしれないが、「売り物にする」の本当の問題は、それが目的となってしまうことにある。

 つまり「御子イエス・キリストを啓示する」という御言葉の本来の目的が、「何かを得るために御言葉を伝える」というように挿げ替えられてしまうことが問題なのである。

 実例で言うと、「繁栄の福音」を主張する教会では、経済的対価を得るために什一献金や「捧げること」をテーマとして選び、強調したりする。確かに新約聖書は自由献金については語っているが、それを什一献金制度という根拠のない教えに変質させ、繰り返し語るのである。福音の啓示全体から見れば、献金のテーマはほんのわずかな部分を占めているだけなのに、間違って設定された目的を達成するために、繰り返し強調されるわけである。

 しかし経済的対価を得る目的よりも、さらに狡猾で危険なのは、倫理的・精神的対価を得るために聖書の言葉を利用する場合である。第三者からの評価を得るため、その評価を基に社会的認識を得るため、など自分自身の目的のために神の御言葉を利用する。そして目的が異なるから、そこには必然的に「混ぜ物をする」「品質を落とす」作用が働くのである。

 例えば、自分が行っている宗教的・倫理的選択を誇る目的で、それらに関連する御言葉を強調し、本来聖書の中で与えられている以上の比重を与えて第三者に伝えたりする。聖書には「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。」(ローマ14:21)とあるが、自分が肉を食べず、酒を飲まない選択をしていることを誇るためにこの箇所を繰り返し伝えるならば、それは自分の目的のために神のことばを売る行為と見做されるだろう。

 伝道や教えること自体さえ、自己満足の目的追求のツールとしてしまうほど、人間の自己義認の欲求は根深く、狡猾だと思う。

 御子の十字架の死を通して、これらの目的のすげ替えに聖霊の光を当ててもらうしか、解放の道はない。