an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

霊における「物乞い」の至福

マタイ5:1-12

1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう

5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 

12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 

 所謂、『山上の垂訓』と呼ばれる、御子イエスによる一連の教えが、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」という、ぱっと読めば逆説的に思える至福(「この上もない幸せ」という意味)の言葉で始まっているのは、大変印象深い。

 さらに「こころ」と和訳されている原語【πνεῦμα pneuma】は「霊」であり、「貧しい人たち」【πτωχός ptōchos】は字義的には「物乞い、乞食、貧乏人」である。つまり「霊における乞食はさいわいである」と言っているのである。

 山の上で御子の教えを聞こうと集まっていた弟子たちは、エルサレムの富裕者階級に属していなかったとはいえ、御子に従っていく前にはそれぞれ仕事を持っている人々だった。だから御子の言葉を聞いて非常に驚いたのではないかと思う。現代の先進国のような社会保障制度や人権意識がなかった時代に、「物乞い」であることが現代社会に比べてどれだけ疎外されていたか、正確に判断することは難しい(そもそも疎外を比較することはできないかも知れないが)。ただ富が神の祝福の徴であると考えられていた当時の社会において、「物乞い」は決して霊的祝福を象徴する存在ではなかったことは確かである。

 実際、ある機会に御子が「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と説いた時、弟子たちは非常に驚いたのである。

マタイ19:25

弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 

 弟子たちは一般通念によって「神に祝福されていた金持ちが神の国に入れないのなら、私達など入れるわけがない!」と勝手に思い込んでいたので、御子の言葉に大いに驚いたわけである。

 確かにこの「霊における物乞いは幸いである」という真理は、御子の十字架によってのみ成就するものである。聖霊によって十字架の死を自分の中で体験する時、私達の古き人も御子と共に十字架に架けられ、葬られたことを悟る。つまり私達の古き人は「すべてを失う」のである。

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 

 使徒パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失った」(ピリピ3:8)と告白したが、それと同時に、復活し栄光を受けたキリストにあって、「全てを持っている」と言っているのである。

コロサイ2:9-10a

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 

10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 しかし私達はその満ち満ちた神の徳を、信仰によってキリストのうちに見るのであって、「繁栄の福音」の信奉者のように、地上の物質的富や繁栄、「霊的賜物」に強引に反映させようなどとは決して考えない。

コロサイ3:1-4

1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

 「上にあるもの」を味わえば味わうほど、「地上のもの」では心が満たされず、やがて顕れる「神のうちに隠されたいのち」を激しく慕い求めるようになる。

 旧約聖書の詩篇記者アサフも、御子の十字架を知らなかったにもかかわらず、「霊における物乞いの至福」の光を受けていたことが記されている。

詩篇73:25-26

25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。 

26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。 

 もし信仰者が 「霊における物乞い、乞食、貧乏人」と聞いて、侮辱や不快を感じるならば、御子イエスの十字架と自分との関係を見つめ直したほうがいいかもしれない。