an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません」の真意

マタイ10:5-6

5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけ、ません。

6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。

 12使徒を選び、宣教に遣わす前に御子が命じたこの言葉に関して、ユダヤ人の選民意識に媚を売るような解釈を読んだことがあるが、文脈を考慮すると、ただ単に福音宣教初期の優先順位を啓示しているだけではなく、異邦人、特にサマリヤ人の魂の救いに関する御子の深い憐みの心が隠されているのではないか、と思うようになった。

 なぜなら、この段階では12使徒たちを含め、弟子たちの誰も御子イエスの死と復活による聖霊を受けておらず、自分たち以外の民族の人々を、真の意味で偏見なく愛する心が全く備えられていなかったからである。

 実際、御子イエスの一行がサマリヤの町を通ってエルサレムへ上っていこうとしたとき、サマリヤ人たちが御子イエスを受け入れなかったという理由で、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」という何とも悪辣な提案した。(主は弟子たちを「最後の審判者」に任命したわけではなかった!)

ルカ9:51-56(新改訳)

51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、

52 ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。

53 しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。

54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

55 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。

56 そして一行は別の村に行った。

 55節に関して、新改訳の脚注には

*異本「そして彼は言われた。『あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。

56 人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです』」を加える。

とある。英語訳のKJVやNASB、WEB(http://biblehub.com/luke/9-55.htm 参照)において、またイタリア語訳のDDTやNRVでも、同じように挿入されている。

 つまり弟子たちは、自分たちがどのような霊によってサマリヤ人たちを扱っているか、全く理解していなかったのである。言い換えるならば、弟子たちも御子の死と復活に対する信仰によって新しく生まれ変わり、聖霊によって心を満たされなければ、サマリヤ人やその他の異邦人に、恵みの福音を伝える適性を持っていなかったのである。

 もし御子がそのまま弟子たちに「異邦人の道に行きなさい。サマリヤ人の町に入って『天国が近づいた』と告げなさい」と命令していたら、弟子たちは救いを受け入れる人よりもはるかに多くのサマリヤの人々を躓かせていただろう。自分たちのことをすぐに受け入れなかったという理由で、何度も呪いと裁きの言葉を吐き捨てていたかもしれない。

 こう考えると、御子が「サマリヤ人の町にはいってはいけません」と禁じながらも、サマリヤのスカルの一人の女にご自身を啓示し、同じ町の住民に真理を証ししたり(ヨハネ4章)、『善きサマリヤびとの譬え』(ルカ10:25-37)を教示したり、またその段階では受け入れられないことを知りながらも、あえてサマリヤの町を通っていこうとしたのは、このような弟子たちがやがて新生し、聖霊に満たされて福音を語りにサマリヤの町々に行く時(使徒行伝8章)のことを考えて、自ら模範を示すことで彼らを備えようとしていた、とも考えることもできるだろう。

 何という知恵、何という愛だろうか。

 自分たちは真剣に福音宣教をしたいと自覚しているにもかかわらず、まるで門が閉ざされ、思うようには全く展開していかないと感じる時、私達は一旦立ち止まって、自分たちがどのような霊によって動かされているかを確認するのは、非常に賢明な選択だと思う。