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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

救われていないから救いを求め、そして「信じる者はみな救われる」

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信じる者は救われる、のか 社会学者 橋爪大三郎 :日本経済新聞

信じる者は救われる、のか 

社会学者 橋爪大三郎

2017/11/14 14:00

情報元

日本経済新聞 電子版

 

スピリチュアル(霊性)の話の三回目。

 救世軍(メソジスト教会系)の社会鍋。♪信じる者はみーんなー、みーんな救われるー、と歌っていた。キリスト教は、神を信じれば救われる、という教えなのか。

 むずかしい点だが、厳密にはそうではない。キリスト教は、神を信じれば救われます、などといった甘い教えではない。

 神を信じようかどうしようか→よし、神を信じよう→じゃあ救ってあげましょう。これだと、人間の決意(信仰)が、自分を救うことになる。そうではなく、人間を救うかどうかは神の一存で、人間が口をさし挟めない、と考えるのが正しい。

 じゃあ、神を信じても意味がないのか。いや、信仰は意味がある。こんな理屈だ。誰を救い誰を救わないか、決めるのは神。誰が信仰をもつか、決めるのも神。信仰は、神の恵みである。信じるから救われる、のではなく、救われているから信じることができる、である。こう理解すれば、「信じる者は救われる」と歌っても間違いでない。

 神は全知全能なので、人間の精神に働いて信仰を与えたり与えなかったりできる。キリスト教は、この働きをとくに聖霊とよぶ。信仰は、聖霊の働きとそれに応える人間の共同作業なのである。

 信仰をもつAさんには、聖霊が働いている。では、信仰しないBさんに、聖霊は働ていないのか。いや、働いている。まだその時期でないという神の計画で、信仰にストップがかかっているだけ。もちろん、救われるチャンスは十分にある。

 キリスト教は人間の精神活動を、聖霊の働きと考える。そんな人びとが集まったアメリカは、スピリチュアルの国なのだ。

 「信じるから救われる、のではなく、救われているから信じることができる、である。」 

 しかし御子はこう語っている。

マルコ16:15-16(新改訳)

15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 「あなたはすでに救われているのですから、それを信じなさい」というメッセージを宣べ伝えなさい、とは命じてはいない。個人的な信仰が「救われるか」それとも「罪に定められるか」を条件づけているのは、聖書の言葉をそのまま読めば明らかである。

 むしろ聖書は、全ての人は御子の十字架の死によってそのままでは「すでにさばかれている」ゆえ、救われる必要があると啓示している。

ヨハネ3:17-18

17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

 緑に囲まれたのどかな湖に浮かぶボートの中で、初夏の心地よい陽射しをうけて寝ている人を「救助しよう」とするだろうか。しかし、もしそのボートが滝に向かって流されていて、そのままでは滝つぼに呑み込まれてしまうならば、その人は救助が求めるだろう。

ローマ10:9ー13

9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。

13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 主なる神は天地創造の前から、御子において救いの計画を定められていた。それは「誰を救い誰を救わないか、決めるのは神」という予定論ではない。悪(この文脈では不信仰)は、神が創造したものではなく、自由意志を与えられた被造物が善、つまり神に信頼し、従い仕えるという選択を否定した当然の帰結である。

 神が定めた法則は、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」である。