an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

フランシスコ教皇のスピーチにおける「教会」に関する考察


Pope Francis: Relationships With Jesus Are Dangerous

 添付した映像は、2014年6月25日(水)にヴァチカン市国サン・ピエトロ広場における一般謁見のスピーチ『La Chiesa: 2. L'appartenenza al popolo di Dio (教会:2.神の民への帰属)』の内容の一部である。全体の映像やスピーチの内容は、こちらの公式サイトにおいて参照可能である。

 ローマ教皇がこの発言をした時から少々時間が経過しているが、インターネット検索の結果、日本語に翻訳されて取り扱われている記事を見つけることができなかったので、和訳して共有してみたい。

 以下、映像で抜粋されたイタリア語のスピーチの内容とその和訳である。

Nella Chiesa non esiste il “fai da te”, non esistono “battitori liberi”.

Quante volte Papa Benedetto ha descritto la Chiesa come un “noi” ecclesiale!

Talvolta capita di sentire qualcuno dire: “Io credo in Dio, credo in Gesù, ma la Chiesa non m’interessa…”. Quante volte abbiamo sentito questo? E questo non va. C’è chi ritiene di poter avere un rapporto personale, diretto, immediato con Gesù Cristo al di fuori della comunione e della mediazione della Chiesa. Sono tentazioni pericolose e dannose. Sono, come diceva il grande Paolo VI, dicotomie assurde. È vero che camminare insieme è impegnativo, e a volte può risultare faticoso: può succedere che qualche fratello o qualche sorella ci faccia problema, o ci dia scandalo… Ma il Signore ha affidato il suo messaggio di salvezza a delle persone umane, a tutti noi, a dei testimoni; ed è nei nostri fratelli e nelle nostre sorelle, con i loro doni e i loro limiti, che ci viene incontro e si fa riconoscere. E questo significa appartenere alla Chiesa. Ricordatevi bene: essere cristiano significa appartenenza alla Chiesa. Il nome è “cristiano”, il cognome è “appartenenza alla Chiesa”. 

 

教会には「D.I.Y.(*)」は存在しません。「フリーランサー」は存在しません。ベネディクト教皇は何度、教会を「教会の私たち」と言い表したことでしょうか。時折、ある人が「私は神を信じ、イエスを信じます。でも教会は興味ありません」と言うのを聞きます。何度聞いたことでしょう。これはよくないことです。なかには教会の交わりや仲介がなくても、イエス・キリストと個人的でダイレクトで、即時な関係をもつことができると信じる者もいます。これは危険で有害な誘惑です。偉大なるパウロ六世が言っていたように、それは馬鹿げた二分法です。

確かに共に歩むのは骨の折れることで、時に困難になりえます。ある兄弟やある姉妹が問題を引き起こしたり、憤慨させたりすることもあり得ることです。

しかし主はご自身の救いのメッセージを人間に、私たち全員に、証人に委ねました。私たちの兄弟や姉妹においてこそ、彼らの賜物と限界と共に、(主は)歩み寄って下さり、自らを知らしめてくださるのです。これこそ教会に帰属していることを意味します。よく覚えていてください。クリスチャンであるということは、教会に帰属するという意味です。名は「クリスチャン」、姓は「教会に帰属している」です。

 

(*) 訳者注:Do it yourself(専門家に依頼せずに自分の手で望む生活環境をつくる行為)

 教皇が使っている「dicotomie 二分法」という表現はわかりにくいかもしれないが、この文脈においては「二つの要素の完全な分断」を意味し、「馬鹿げた・不条理な」と形容しているのは、「本来完全に分断することができないものを分離している」という意味においてである。

 だからこそ、この教皇のスピーチで明らかにしておかなければならない点は、彼が言うところの「教会」の定義である。当然、フランシスコ教皇は自ら代表として「ローマ・カトリック教会」について話しているが、それは新約聖書が啓示する「教会」と一致するものではない。いくら「普遍的」という意味である「カトリック」という形容詞を用いていても、地上におけるある一つの宗教組織が、御子イエス・キリストの霊的体である「教会」と完全に一致することは、聖書の中に啓示されていないからである。自ら「普遍的」であると宣言する宗派組織が地上にはいくつも存在し、互いが他の「普遍性」を認めていない事実が、そのことを証明している。

 使徒パウロは党派心に支配されていたコリントの信徒らに対して、「キリストが分割されたのですか」と皮肉な問いかけで戒めている。

Ⅰコリント1:12-13(新改訳)

12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。

13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。 

  実際、霊的なキリストの体、つまり「教会」は一度も分割されたことなく、いかなる人間も、たとえ彼が宗教的に敬虔であろうと、その「教会」の救いのために十字架の上で命をささげたことはないのである。

 勿論、一つの地域の信仰者の集まりとしての教会は、その信仰によって霊なるキリストの体を構成する「肢体」ではあるが、その全体ではあり得ない。全体は霊的な教会のみである。

ローマ12:5

わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

エペソ5:30

わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。

  霊的な教会とのつながりは当然霊的であるのだから、「イエス・キリストと個人的でダイレクトで、即時な関係」こそそれに対応し得る。それは「危険で有害な誘惑」どころか、むしろ「必要不可欠な霊的条件」である。

 御子イエスは「私に従ってきなさい」(ルカ18:22;ヨハネ21:22)「私のもとに来なさい」(マタイ11:28)と命じている。

 余談になるが、ローマ・カトリック教会における「エキュメニカル運動」というのは、上述の「教会概念」を絶対的前提としているので、「異なる宗派・教派がキリストの名によって一つになる」というよりも、「唯一のローマ・カトリック教会の下で異なる宗派・教派が吸収され一つになる」という概念であることを認識しておくのは重要である。プロテスタント教会や福音派教会などがエキュメニカル運動に参加するとき、ローマ・カトリック教会が「離れていた弟が家に帰ってくる」と解釈するのは、そのような独自の教会論的前提があるからである。