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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

イザヤ53章:「預言者はだれについて、こう言っているのですか。」

使徒8:26-35

26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。

27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、

28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。

30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。

31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。

32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。

33 彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。

34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。

35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。 

  現代的に言い換えれば、おそらく「財務大臣」レベルの人物だと思われる高官が、帰国の途において馬車の上で読んでいたのは、イザヤ書53章の7節と8節であった。旧約聖書の聖句と微妙に異なるのは、ギリシャ語訳の七十人訳から引用されているからである。

イザヤ53:7-8

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 

 そしてこの宦官は、どこからともなく突然現れ、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と捉えようによっては無礼にも聞こえる質問をした見ず知らずの男に対して、非常にダイレクトで核心的な問いを投げかけた。

「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」

 民のとがのために打たれ、生けるものの地から断たれたという「彼」とは、いったい誰のことを言っているのだ、という素朴な質問である。

 そのダイレクトな質問に対するピリポの答えも、同じようにぶれも迷いもないものであった。

彼にイエス〔の福音〕を告げ知らせた。(岩波翻訳委員会訳)

 原語にはイエスの名の前に定冠詞がついているので、非常に強いニュアンスである。ピリポは頭に浮かんだ適当なイメージで語ったのではなく、聖霊が啓示し、教会の兄弟姉妹の間で信じられ、宣べ伝えられていた「イエス」と「全く同じイエス」をそのままエチオピアの高官に告げ知らせたのである。

 預言者イザヤが紀元前8世紀頃に書き記したと言われる預言に対する本質的な問い「ここで預言者はだれのことを言っているのですか」は、決してこのエチオピア人だけのものではなく、現在に至るまで多くの人々によって問われてきたものである。イエスが救い主であると信じる信仰者にとっては、イザヤ53章はまさしく「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに続く『第五の福音書』」と呼べるほど明確にイエスの苦難について啓示しているのだが、そのイエスがメシアであることを受け入れていない人々、特にユダヤ教の人々にとっては、その明白さゆえに「都合の悪い」箇所なのである。

 だから「この箇所は、イスラエルの民全体の苦難について語っている」という解釈を固持するわけであるが、「彼はわが民のとがのために打たれて」と明確に書かれている以上、「彼=イスラエルの民」とは解釈することはできない。

 以下のサイトの映像では、『イザヤ53章:イスラエルの民についてか、それともイスラエルのメシアについてか』というタイトルで、過去のユダヤ人教師(ラビ)が書き残した解釈を数多く引用し、預言者イザヤが来るべきメシアについて語っていたことを論証している。 

 また以下の映像は、御子イエスがメシアであることを信じたユダヤ人の一人であるMottel Balestone氏の証しである。3分14秒あたりからイザヤ53章について語っている。「もし聖書の他の箇所なしで53章を読むなら、あなたは『これはクリスチャンの聖書(ユダヤ人は新約聖書をそう呼ぶ。訳者注)だ。これはイエスだ』と言うだろう」と語っている。

 読者の方々も、実際に53章を読んでいただきたい。文脈上、52章の終わりのところも合わせて引用する。

イザヤ52:13-15

13 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。

14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――

15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。 

53:1-12

1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。

2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 

 ちなみにこの箇所に関して、新約聖書では以下の聖句で引用されている。(LXXはギリシャ語旧約聖書七十人訳のことである。)

  • 52:15(LXX)⇒ ローマ15:21
  • 53:1(LXX)⇒ ヨハネ12:38; ローマ10:16
  • 53:4 ⇒ マタイ8:17
  • 53:7,8(LXX) ⇒ 使徒8:32,33
  • 53:9 ⇒ Ⅰペテロ2:22
  • 53:12 ⇒ ルカ22:37

 

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