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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「父と子と聖霊との名によって」に関する考察

マタイ28:18-20

18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 

  「父と子と聖霊との名によって」という箇所の「名 ̓́νομα / onoma」が原文において単数形であることから、神の三位一体論の根拠の一つとして引用されることが多い。

 しかし創世記48:16を引用し、そのヘブライ語原文において、またギリシャ語LXX訳においても「名」が単数形であることから、「必ずしもマタイ28:19の単数形は三位一体を啓示しているものではない」と主張する見解もある。

創世記48:16

すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように」。  

 つまりここではアブラハムとイサクという、固有の人格をもつ個別の二人に対して「名」が単数形で使われているのだから、マタイ28:19も必ずしも三位一体を顕わしていると言い切れない、という意見である。

 しかし、そもそもマタイ28:19の「父と子と聖霊との名によって」は、「御父と御子、御霊のそれぞれ個別の三位格を代表する唯一の名前によって」を意味しているのだろうか。確かに、使徒2:38や4:12、ピリピ2:9,10などを読むと、御子イエス・キリストの名がその「代表する唯一の名」のような印象があるが、しかしマタイは「父と子と聖霊と」と三位格を書いているのであって、「御子の名によって」とは表現していないのである。

 むしろここでの「名」は、「νομα / onoma」の語意のなかに含まれている「権威」、つまりその名をもつ人物の全てと切り離すことのできない本質を表している。したがって「父と子と聖霊との名によって/in (into) the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit」は、「御父と御子と御霊の、全ての権威と光栄と属性と働きにおいて」という意味である。(これは、「父と子と聖霊との名によって」受ける水のバプテスマに、無限の深みを与えていないだろうか。) この表現が、無数の「神々」の存在に信じていたギリシャ人やローマ人に対してではなく、神の絶対的唯一性を信じていたユダヤ人を対象に書かれた『マタイによる福音書』の中で使われているのは、非常に意義深い。

 そして神自身が、ご自分の同等の栄光を他の者に与えず、何者も等しくあることできないと宣言している以上、「御父と御子と御霊との名(単数)」が唯一の神を啓示している以外にないのである。

イザヤ48:11

わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない。

イザヤ46:5;9

5 あなたがたは、わたしをだれにたぐい、だれと等しくし、だれにくらべ、かつなぞらえようとするのか。

9 いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。

 そして創世記48:16の文脈を確認すると、ヨセフの長男マナセと次男エフライムを彼らの父祖にあたるヤコブが自分の子供として「贖うこと」、そしてヨセフの三男以降がヨセフの子として数えられること、しかし彼らが家を継ぐ時は「エフライムとマナセ」の名(単数)で呼ばれなければならない、と定めている。

創世記48:3-6(新改訳)

3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、

4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。

6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。 

 とても難解な定めだが、要するにヨセフがヤコブの他の子たちに比較して二倍の祝福を受け、ヨセフの三男以降の子らも、「エフライムとマナセの名によって」そのヤコブによる二倍の祝福の与ることができることが約束されていたことになる。だからここでも「名」は名前そのものではなく(ヨセフの三男以降から生れた子孫全員が、「エフライムとマナセ」という名前を名乗らなければいけない、という意味ではなかった)、「神の祝福の約束」や「名誉」を意味している。

 またヤコブ(ここでは「イスラエル」と呼ばれているのは興味深い)がエフライムとマナセを「私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。」と祝福した時、それは「神の御前に歩んだ信仰者としてヤコブの証しが、同じ信仰によって御前に歩んだアブラハムとイサクの証しと共に、エフライムとマナセの子孫に語り継がれますように」という意味をもっていたと解釈できる。

創世記48:14-16

14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」 

 したがって創世記48章の用法は、マタイ28:19の「名」の三位一体論をサポートし得るが、否定するものではないことがわかる。