an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

無邪気ではいられない(8)AIとマーケティング的アプローチ

 最近、AI(人工知能)について色々考えている。正直に言って、技術的な面に関してはさっぱり理解できないが、AIを取り巻く問題は信仰者が除外できるほど遠くにはないと思う。

 多くのクリスチャンもFacebookやTwitter、LineなどのSNSなど利用していて、その膨大なデータが知らない形で蓄積されている。「この宗派に属するクリスチャンは、あるトピックに関して、こう反応し、こういうコメントをした」「ある種のクリスチャンは、このような音楽を好み、Youtubeでこういう映像を検索した」といった詳細な個人情報が大量に蓄積され、統計学的解析が行われる。そのデータが多ければ多いほど、カテゴリーごとに思考や行動のパターンの枠組みができてくるわけである。

 当然、マーケティング的方法論を「宣教」や「牧会」に取り入れることに倫理性を問わない人々は、AIによるデータ解析を利用することに躊躇うことはないだろう。「ある特定の教会の聖職者ではない人物を使えば、より広範囲の、超教派的な意識をもつ層にアクセスできる」「このホットなテーマを扱えば、地域教会に通ってないが色々な問題意識を持っている信仰者の好奇心に訴えることができる」「説教や講演の際、こういうジョークや逸話を使うと、人々は心を開く」「このような賛美を取り入れると、聴衆の感情的に巻き込むことができる」など、神学的バランスも含めて全て「戦略的プログラム」を組み立て、利用することができるだろう。

 例えば、日曜日の午前中に移動可能な範囲の地域について、「性別」「年齢」「家族構成」「学歴」「職業」「病歴」「趣味」「個人信条や政治観」「願望」「SNS上の繫がり」「潜在的欲求」「地域のおける人の流れ」などの個人データの蓄積をAIに分析・予測させれば、その地域のあるターゲット層が何を考え、信じ、どんな行動し、何に不満をもっているか、何を求めているか、どこに集まれるか、など具体的なデータに基づいた「戦略的プログラム」を立てることができるのである。私のような素人が思いつくのだから、程度の差こそあれ、すでに実行している人々は少なくないのではないだろうか。

 とは言え、聖霊の導きを求める信仰者にとって、このようなアプローチは狡猾で不誠実に思える、と信じたい。だが、ある種の人々にとっては、「神から知恵」であり、「上からの賜物」と見なされることもまた現実である。インターネットから見つけてきた「説教」をそのまま講壇から語り、あたかも聖霊による導きかのような興奮を演出する人々にとって、そのアプローチは全く問題ないどころか、積極的に用いるべきものとしか映らないだろう。

 過去に思わぬ状況で、マーケティング方法論を取り入れたあるアメリカ人講師の「説教論」を聴いたことがある。彼は実際に一つのテーマを講習生の一人に選ばせ、そのテーマの合わせた聖句を数節選び出し、その場で15分ほどの「説教」を組み立てて見せた。心理学的アプローチを取り入れながら、如何に聴衆の心を引き寄せるか、実践してみせた。それは実際、長年の経験から生み出された、実に完成度の高い魅力的な「スピーチ」ではあったが、同時に非常に不誠実で後味の悪い「種明かし」に思えた。

 このようなタイプのアプローチは、単純に聖句を引用しているからと安心して受け入れることができるものではないと、私は信じる。

 いつの時代でも、宗教は時の権力に利用され、地上の教会は少なからず巻き込まれてきた。AI自体はひとつのツールであるが、真の問題はそれを意図的に「神の位置に祀り上げる」傾向であり、その偶像化されたものを「誰が」「何のために」利用するかではないだろうか。

 無邪気ではいられない、と思う。