an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子は、見えない神のかたちである(1)

コロサイ1:15-17

15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。

16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 

 「御子は見えない神のかたち(εἰκών eikōn)である。」 この真理は、御子が「見ることができない」「見ることができる要素をもたない」霊的な存在の本質を成していることを意味する。それは時間や空間によって限定されることのない本質である。

 実際、「全ての造られたものに先立って生まれたかた」という啓示が証明している。つまり御子は時間や空間、物質が創造主によって造られる「以前」から存在しているのである。時間さえもない状態なのだから、「生まれた」という表現も、私たちが通常に使う概念を適用することはできない。

 これは言語で説明することは非常に困難な霊的概念である。少なくとも私には、適切な言葉を見出すことができない。ヨハネが使った「父のふところにいる」という表現が、「生まれた方」という表現の、父なる神と御子の関係性を暗示していると思う。

ヨハネ1:18

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 

 それは「見ることができない存在」と「見ることができるように啓示された御子」の関係でもある。それはまた「人間が見て生きることができない神の栄光」と「その栄光の可視化された輝き」、「見えない神の本質」と「完全な顕れ(χαρακτήρ charaktēr)」の関係である。

へブル1:3a

(新改訳)

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、

 

(口語訳)

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、

 この「見えない神」と「啓示されたかたち」の関係は、簡略化とか象徴化されたものではない。それは「完全な顕れ」である。「啓示されたかたち」のうちに、神の満ち溢れる神性が余すことなく、宿っているのである。

コロサイ2:9(新改訳)

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 

 

(新共同訳)

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、

 だからこそ、御子自身の口から「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)という言葉が出てきたのである。もし御子が自身に関して「無限な神の象徴」「見えない神の部分的啓示」という意識があったのなら、このようなことは決して証しすることはできなかっただろう。事実でなかったら神に対する冒涜でしかないほど、強烈な宣言である。