an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

視界を塞ぐ衝立

黙示録1:9-17a

9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

11 その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。

12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。

13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。

14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。

15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。

16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

17a わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。

 御子の栄光の姿が顕れた時、福音宣教のために流刑をも耐え忍んでいた「愛の使徒」ヨハネが、御子の足元にひれ伏し、死人のように力を失ったのならば、御子の御前に立っている気になり、真実の愛を求めている人々の視界を塞いでしまっているのなら、私は一体何者なのだろうか。

 「信仰の父」「神の友」アブラハムも、「全ての人に勝って柔和であった指導者」モーセも、「エリヤと並ぶ大預言者」イザヤも、「知恵の人」ダニエルも、主なる神の栄光を垣間見た時、御前にひれ伏し、神を畏れ、自らの力を失った。

 現在に至るまで十字架の死のしるしをもつ御子の前では、十字架の霊が働き、人間の古い力は全てを失い、復活の命なくして自立していることができない。

 自分の欺瞞、偽善、さらに善行や霊的経験さえも、御子の栄光と人との間で「視界を塞ぐ衝立」のようになっているのなら、今一度、本当に自分は御子の前にいるのか、自省する必要があるのだろう。