an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

奇妙な比較

 通常、ある人物の偉大さについて語るとき、他の偉大であったり、優れていたり、誉ある人物や事象と比較するものである。聖書における御子の啓示に関しても例外ではない。

 以下、実際に聖書が啓示している御子の偉大さに関して述べている比較の聖句を挙げる。

  • エルサレムの神殿よりも大いなるイエス:

マタイ12:5-6

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

  • 預言者ヨナに勝るイエス:

マタイ12:41

41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

  • 栄華を極めたソロモン王に勝るイエス:

マタイ12:42

南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。 

  • ダビデ王に勝るイエス:

マタイ22:41-45

41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、

42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。

43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。

44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。

45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

  • 「信仰の父」「神の友」に勝るイエス:

ヨハネ8:52-53;58

52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。

53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。

58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。 

  •  イスラエル民族の父ヤコブに勝るイエス:

ヨハネ4:12-14

12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。

13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 

  •  預言者・指導者モーセに勝るイエス:

へブル3:1-3

1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。

2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。

3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。 

  •  御使い、さらにサタンにも勝るイエス:

へブル1:4-6

4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。

5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。

6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。 

Ⅰヨハネ4:4

子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。 

  •  律法によって立てられ、宮で仕えていた祭司たちに勝るイエス:

へブル7:23-28

23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。

26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。

27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。

28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。  

 しかし次の聖句に啓示されている比較は、とても奇妙なものである。

Ⅰヨハネ3:20

なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

 「呵責に苦しむ私たちの良心」と、偉大なる無限の神を比較しているのである!

 しかし実際のところ、私たちの心の中にある、あの言いようのない虚しさや、笑顔や忙しさで隠している心の罪悪感や重圧、劣等感は、この世の如何なる偉大な人物や偉業であっても完全に取り去ることができないほど、重く、深い根をもち、そして手に負えないほど狡猾である。

エレミヤ17:9-10

9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

 ただ人の心を完全に知る主なる神だけが、全ての者に勝る御子の贖いの死と復活を通して、私たちの心を罪と闇の支配から完全に勝ち取ってくださるのである。

コロサイ1:13-14

13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。

14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。