an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

In Christ いのちの泉に憩う

ガラテヤ1:6-10(新改訳)

6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。 

 非常に重要な点は、使徒パウロがガラテヤびとの霊的後退に関して、「キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方」つまり「生ける神」から離れて、「他の福音」に移っていった、と表現していることである。「正しい福音から離れて、他の福音に移っていった」と書いても間違いではなかっただろう。しかし実際に使徒パウロにとっては、全ての源泉である生ける神との人格的・秩序的な交わりから離れ、いのちを持たない、単なる言葉の羅列でしかない霊的混乱の中に引きずりこまれているようにしか見えなかったのである。

 現代ではインターネットを使って大衆の思考を操作したり扇動する目的のフェイク・ニュースが問題となっているが、ガラテヤ地方の信仰者らに対する「異なる福音」の影響はそれを遥かに超える霊的のものだった。その霊的混乱とは、まさに呪い【ἀνάθεμα anathema】、つまり御子自身が私たち罪びとを解放するためにご自分に身に負って犠牲となってくださった、その呪いそのものであった。

私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。  

 キリスト者はまさしく「キリストに属する者」、つまりキリストの命のなかで、キリストの命によって生きているものである。

詩篇36:7-9

7 神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、

8 あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。

9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。 

コロサイ2:3-10a

3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。

4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。

5 たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。

7 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。

8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 「巧みな言葉」や「虚しい騙しごとの哲学」、「世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝え」などの「不毛な荒野」に背を向け、自分たちを召してくださった方のもと「In Christ」にとどまり、感謝の賛美を捧げよう。