an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

自らの祈りを省みる「ものさし」

マタイ7:21-23

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

ルカ18:9-14

9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 

  引用した『マタイによる福音書』の「多くの者」と、『ルカによる福音書』のパリサイ人には、祈りにおいて非常に明確な共通点がある。それは両者の祈りとも、主なる神に向かって語られている(「主よ」「神よ」 祈りと礼拝の対象としての、御子の神性を啓示している箇所でもある)と同時に、両者とも「自分が行ったこと」を語っているという点である。

主よ、主よ

わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。

また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。

神よ

わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています

  恐ろしくシンプルだが、自分自身の祈りを省みて、果たして本当に信仰に基づいているのか(自分自身の人格や「善行」に意識が置かれているか、それとも心のうちに宿る御子と彼が成し遂げた善きわざの中にいるか)を量る「ものさし」として有効だと思う。

Ⅱコリント13:5a(新改訳)

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。

 

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