an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。

ガラテヤ2:11-14

11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。

12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 

 シリアのアンテオケ教会に集まっていたケパ(使徒ペテロ)も、「ヤコブのもとから来た人々」つまり「エルサレム教会からアンテオケ教会に訪れていた人々」も、「割礼の者ども」も、「他のユダヤ人たち」も、バルナバも、使徒パウロも皆、全員生粋のユダヤ人であった。同じ旧約聖書を読み、同じイスラエルの王イエス・キリストを信じ、同じ信仰を持っているヘブライ人であった。

 しかしこのアンテオケ教会において、使徒パウロ以外は皆「ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、異邦人にユダヤ人のようになることを強い」、「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていなかった」のである。

 「イエス・キリストを救い主として信じたヘブライ人(ユダヤ人)」、所謂「メシアニック・ジュー」を、「ユダヤ人だから」「アブラハムの子孫だから」という根拠で一括りにして、恵みの福音自体が与えていない「権威」や「優位性」を主張する者がいる。しかしアンテオケ教会における使徒パウロの言動は、その主張を完全の否定している。

ガラテヤ5:6-8

6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

7 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。

8 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。

ガラテヤ6:15

割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。  

  言い換えるなら、「割礼の有無」つまり「ユダヤ人キリスト者であるか、異邦人キリスト者であるか」が違いをもたらすのではなく、ユダヤ人であっても異邦人であっても「福音の真理に従ってまっすぐに歩いているか否か」が神の御前で問われているのである。

ルカ12:1

その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。