an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の栄光の希望の確かさ

ローマ5:1-8(新改訳)

1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。  

 「この希望は失望に終わることがありません。」 新改訳や口語訳には時間の経過のニュアンスがあるが、原語の時制の観点によれば以下のバージョンの方のほうがよりダイレクトで適切に思える。

岩波委員会訳

希望は〔私たちを〕歎くことはない。

 

前田訳

この希望は恥をかかせません、 

 ただ日本語の表現として「希望は歎(なげ)くことはない」「希望は恥をかかせない」は使わないだろう。要するに「神の栄光の希望」は、「今の段階では確かではないが、やがて訪れる未来において、最終的には確かなものになるだろう」というタイプのものではなく、「今現在、そして未来も確かなもので、信じる私たちを決して失望させない」というニュアンスである。

 この希望の「今」における確かさは、二つの重要な真理によって支えられているものである。それは「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」ということと、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる」ということである。つまり「今この瞬間に、信じる者の心には聖霊が住み、今この瞬間に、御子の十字架の死を通して、神の愛を明らかに示している」という真実である。

 私たちが聖書を何章も読んだからでも、誰かを助けたからでもなく、御子の死によって神の愛が世に示され、御子の復活によって聖霊が下り、その愛が注がれ続けていることが、希望の確かさの根拠である。つまり裏返して言うならば、私たちが調子が悪いから、罪を犯してしまったから神の愛が覆われ、希望がその確かさを失うのではない。

 今現在の私たちの感情や印象で、変わらぬ神の愛の光を覆ってしまわないよう注意しよう。