an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「取税人や罪人の友」

ルカ7:31-35

31 だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。

32 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。

33 なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、

34 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

35 しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。

ルカ15:1-2

1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。

2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。  

 「取税人、罪人の仲間」 

 「仲間」と和訳されている原語【φίλος / philos】は、「友」(ルカ11:6;ヨハネ3:29;11:11;ヤコブ2:23参照)という意味をもつ。「取税人、罪人の友」。しかもこの表現は、御子に従っている人々の口から出たものではなく、むしろ御子を敵視し、妬み、殺そうとしていたパリサイ人や律法学者の口によって、侮蔑と嘲笑の意味を込めて広められた言葉であった。というのは、実際にこれらの宗教家たちは、御子イエスが取税人や罪人たち、つまりユダヤ人会堂を中心とした社会・宗教共同体からつま弾きにされていた人々と共に食事をしているのを見ていたからであった。

 「食事を共にする」という行為は、「一緒に同じものを食べる」という物質的要素以上に、「交わり」「共有」という精神的意味をもっていたから、パリサイ人や律法学者は決して取税人や罪人と呼ばれていたカテゴリーの人間とは食事を共にすることはなかった。彼らにとっては、穢れることを意味していたからである。

 勿論、御子イエスが取税人や罪人と共に食事をしていたのは、彼らの罪や倫理的問題を容認していたからではなかった。宗教家の偽善に対しての断罪と同じように、御子は貪欲や姦淫に対する断罪を告げ、同じく悔い改めを求めていた。

 御子がなぜ彼らと食事をしていたかは、御子自身が答えている。

マタイ9:9-13

9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。

10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。

12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

ルカ5:30-32

30 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。

31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。

32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 

 イタリアで【Dimmi con chi vai e ti dirò chi sei.】という格言があるが、「一緒にいる人を見れば、その人なりがわかる」という意味である。だが霊的次元に適用するならば、少々単純すぎるかもしれない。

 終わりの時の信仰者が認識しなければいけない危険は、「義人の友」と人々に呼ばれることを求める欺瞞と、互いに御前で悔い改めを探し求めない「罪びとの馴れ合い」ではないだろうか。

黙示録3:14-22

14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

Ⅱテモテ4:1-5

1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。