an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「わたしたちはどこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」

ヨハネ6:1-7

1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。

2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。

3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。

4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。

5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。

6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。

7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。 

 御子イエスが12弟子のひとりであるピリポを試すために投げかけた問い「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」は、日本語では文法上明確でないニュアンスが含まれている(このようなことを書くと、和訳聖書を卑下・否定する「教師」が大喜びするかもしれないが、当然私はそのような見解には全く同意していない)。

 主イエスは「(わたしたちは)どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と、一人称複数形を使うことでご自分を弟子たちのグループ、つまり群衆のために何とか問題を解決しなければいけない立場」の中に含めたのである。

 この詳細はとても意味深いのではないだろうか。御子は「あなたがたはどこからパンを買ってきて、この人々に食べさせるつもりだ」と、弟子たちを不可能と無力のどん底に突き放すような問いかけはしなかった。

 また物理的に不可能であることを承知して、「私がパンを奇跡的に備え、この人々に食べさせよう」と宣言することもできたはずである。彼にはその力も、動機もあった。しかし主イエスは、「わたしたちはどこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」とピリポに問いかけたのである。

 単純計算によるアンデレの判断は、ピリポのそれと同様に現実的で、全く解決案になっていなかった。しかしアンデレの取った行動は、御子が「私たち」と言ったその意図に応えるものだったのである。アンデレは自分たちの手元にあるもの全てを、そのまま御子のところに持って行ったのである。そして御子はそれを用いて、彼だけができることを成し遂げた。

ヨハネ6:8ー11

8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、

9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。

10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。

11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。 

 「神が本当に全知全能ならば、私たちの問題を完全に知っているはずであり、私たちが解決できないで苦しんでいることも知っているはずだ。それならなぜその神に私たちは祈らなければならないのか。私たちはが祈らずとも一瞬で解決できるのに、なぜ私たちが祈るのを待っているのか。」と疑問を持つ人は少なくない。

 冒頭のエピソードに啓示されているように、その全知全能の神が人となり、イエス・キリストとして地上に遣わされ、人々の必要の真っただ中にいて、「私たちはどうすればいいか」と問いかけていること自体に、生ける神が如何に人間と人格的な交わりを持ちたいと思っておられるかを明確に示しているのではないだろうか。

ピリピ4:6-7

6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。