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牧師・長老・監督の適性(4)「悪魔の罠」

Ⅰテモテ3:1-7

1  「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。

2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、

3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、

4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。

5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。

6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。

7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。 

  聖書には監督(地域教会の責任者で、長老や牧師など呼び方は色々あっても本質的には同じ務めを指す)の適性の条件の一つとして、「教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。」(新改訳:教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。)と明確に書かれている。

 宗教という観点や信仰が要求する倫理においては共感を得られなくとも、一般倫理的・人格的には教会に通っていない人々にもよく思われている人物でなければ監督や牧師の務めについてはいけない、と主張しているのである。

 例えば一般社会において一人の教師が生徒に対して不道徳な行為を犯したり、学校の公金を着服する不正行為を犯したことが明らかになれば、犯罪として法的処罰を受けるだけでなく、職場からも懲戒免職などの処分を受ける。つまり教師としての適性を持たないものとして見なされ、実際に教える資格を失ったりするわけである。

 ましてや一般社会における倫理性と基づいて「不道徳」とか「犯罪」と見なされる行為を犯した牧師や指導者が、霊的指導者としての資格を失うのは当然である。教会はその人物を監督・長老・牧師の任職に留まらせることは、明らかに聖書の教えに反する選択であり、「そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう」という聖書の宣告が時を待たず成就するだろう。(ここで使徒パウロがサタン【敵】ではなく、悪魔【διάβολος diabolos 偽り訴える者・中傷者】の名前を選んでいるのは非常に意味深い。つまりもともと偽って訴える者に、その訴える正当な口実を与えてしまう、ということである。)

 勿論、そのような「牧師」も真摯に神の御前で悔い改めれば、キリストの憐みによって罪の赦しは受けることができると約束されている。しかしそれは「神の憐みを乞う一人の罪びと」としてであって、もはやその適性を失った「監督・牧師・長老」としてではない。

 スキャンダルを犯した牧師をその任務から罷免することを求めると、「サタンの攻撃!」とか「油を注がれた者に触れるな!」「主の御名によって迫害を受けています!祈ってください!」などと感情的な反応する人々が必ず出てくるが、聖書が啓示している教えに基づくなら、むしろそのような反応こそ、まさに「悪魔の罠」に陥っている徴である。

 

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