an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

啓示全体の中におけるそれぞれの教えの「位置」

 『If Americans can find North Korea on a map, they're more likely to prefer diplomacy』

https://www.nytimes.com/interactive/2017/05/14/upshot/if-americans-can-find-north-korea-on-a-map-theyre-more-likely-to-prefer-diplomacy.html?_r=0

  北朝鮮がどこにあるかという質問に対して1746人の回答を視覚化したグラフに注目してほしい。(どちらも引用元のサイトをスクリーンショットしたものである。)

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 下の図は、国名を記入したものである。

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  私はイタリアに長く住んでいて、今まで日本に関する珍妙な質問(「東京は中国の首都なんだろう?」とか、「ルーマニアと日本では、どちらがイタリアに近いの?」などなど)を受けてきたのでそれほど驚かないが、それでも......である。

 勿論、私も例えばジンバブエやブルキナ・ファソの正確な位置を地図で示せ、といきなり求められたとしたら、アフリカ大陸におけるおおよその場所はわかるにしても、正確な位置を示すことなど全く自信はないのだから、似たようなものかもしれないが。

 ただグラフを観ていて気付いたのだが、例えば「北朝鮮はここにある」とアフガニスタンの場所を指した人は、要するに北朝鮮が地球上のどこにあるか知らないだけでなく、アフガニスタンという国がどこにあるかも知らないことを示していることである。それは他の国々の位置を指した人々にも言える。つまり一つの国が本来存在する位置にではなく、他の国が存在する場所にあると考える場合、それは間違えたもう一つの国の位置も知らないことを明らかにしているわけである。

 これを聖書が啓示している教えの次元に適用してみると、大切なことが浮かび上がってくる。つまり、神の啓示全体像の中で、救いに関わる中心的教え、例えばキリストのペルソナや贖罪のわざの教えと、省略したりすることはできないにしても直接救いには関連していない副次的な教えがあるのだが、その啓示全体の中での「位置」を間違えるということは、一つ一つの教えの本質を理解していない可能性がある、ということである。

 具体的に書くと、例えばある人が食べ物に関する教えや、日や季節や年に関する教えに執着し、キリストの贖罪のわざに関する教えの中心性から離れてしまっている時、それは啓示全体の中でのそれぞれの教えの本質の理解が欠如していることを示しているのである。

 命を懸けて福音を伝えた使徒たちが、何を宣教や信仰生活の中心に置き、何を脇に置いていたか、鳥瞰的な視点でキリストの啓示を確認し続けることは、細部にこだわりがちな傾向をもつ場合、必要不可欠なプロセスではないかと思う。

Ⅰコリント2:1-5

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

3 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。

4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。

5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。

Ⅰコリント8:8

食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

コロサイ2:16-17

16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

へブル13:9

さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。