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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。

教会 知恵 十字架の言 聖別(キリストとの交わり)

エペソ4:25

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 

 この聖句において啓示されている教えは、ただ「偽りを捨てなさい」(「偽りを言ってはならない」とは書いていないことに注意。ただ単に偽証しないという次元よりもっと深い、偽りとの関係性に関わることではないだろうか。)と命じているだけでなく、「真実を語りなさい」とも命じている。

 この二つの命令は、互いの補完するものである。なぜなら、人は「偽りを口にしないが、恐れて真理を語らない」ことや、「真理を語りながら、妥協によって偽りを握りしめている」ことが十分にあり得るからである。

 また使徒パウロが言及している理由も意味深い。「わたしたちは、お互に肢体なのであるから。」 つまり、「偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい」という教えは、ただ個人的な倫理性に関わるものではなく、肢体、つまり信仰者の霊的集合体としての「キリストの体」全体に関わる問題だから、と主張されているのである。

 実際、兄弟姉妹に対して偽りを語ったり、偽りを擁護したり、また「調和のために」真実を語らないことは、私たちが認識できるか否かは関係ないレベルで、キリストの体を傷つけ、御霊の働きを妨げる。

Ⅰコリント13:6

(愛は)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

 

(塚本訳)

(愛は)偽りを見て喜ばない、むしろ真理を喜ぶ。

 勿論、「あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。」という教えの実践も、私たちの倫理的努力によって実践できることではなく、やはり御子イエス・キリストのうちにあって成し遂げられたわざを信じる、その信仰によって実現することは、冒頭の聖句の前の部分にはっきりと啓示されている。

エペソ4:17-22

17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。

18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、

19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。

20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。

21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。

22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、

23 心の深みまで新たにされて、

24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

 そう、信仰者の古い人は御子の死によって御子と共に葬られ、死から甦られた真理である方によって、信仰者は新しい人として生きているのである。

ローマ6:3-13

3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、

13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。