an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「御子イエスが与える水」「弟子たちが知らなかった食物」

ヨハネ4:31-34
31 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。

32 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。

33 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。

34 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。

 空腹や疲労、病気などの肉体的負担は、往々にして私たちの精神状態まで影響を与えることは、誰でも経験していることではないだろうか。一日の労働で疲れ切っている時に、誰かの愚痴や不平に喜んで耳を傾けようとする人はまずいないだろうし、たとえ我慢して相談の乗ったとしても、頭に浮かぶ思いや口にする意見には、普段のそれより棘があったりする。適度の空腹は人に明晰さをもたらすが、度が過ぎるとイライラし始めることは少なくない。病気に苦しんでいる人が他人に無関心であったとしても、誰もそれを責めたりはしないだろう。

 御子イエスがサマリアのスカルという町のはずれの井戸のところで、その町に住む一人の女に出会ったとき、御子は弟子たちと共にユダヤからガリラヤに向かっている途中で、歩き疲れ、喉が渇き、空腹であった。

ヨハネ4:1-8

1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、

2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)

3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。

5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、

6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。

7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。

8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。

 御子は弟子たちが昼食を手に入れて戻ってくるまで、静かに一人で休むこともできたはずである。ましてや、スカルの町の人々からも白い目で見られ、孤立していたサマリアの女に、ユダヤ人であるイエスがわざわざ話しかけなければいけない義務は、当時の社会的常識では全くなかった。実際、御子イエスに話しかけられた女は、その想定外の行動に驚き怪しんだのである。

ヨハネ4:9

すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

  そして御子がユダヤ人から蔑視されていたサマリア人共同体からも疎外されていた一人の名も知られていない女性に話しかけた内容は、この女性が驚いた以上に、私たちを驚かす。

10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 

13-14

13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 

21-24

21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 

25-26

25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。

26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。 

 「生ける水である聖霊」「地上的宗教性から解放された霊と真理による礼拝」さらに「自身が聖書に預言されていたメシアであること」という、実に霊的で深遠な真理を「見ず知らず」の一人の女性、社会的には不道徳と見なされていた女性に、いきなり話しているのである!

 果たしてこのサマリアの女が普段から霊的なことに飢え渇いていたかどうかはわからない。彼女がその後、村の人々に語った言葉から推測すると、おそらく彼女は御子が語った内容自体はほとんど理解できていなかったと思える。しかしそれでも、彼女は確かにメシアの顕現を直感的に受け止めたのである。そしてその彼女の言葉は、町の人々を動かすには十分なものであった。

28-30

28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、

29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。

30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

 現代的福音宣教によれば、私たちはこの女性に対して、どのようなアプローチで、何を語っただろうか。教義的な話はしないで、とりあえず彼女の関心を引くように何かイベントを企画しただろうか。「今週の土曜日にヨルダン川のほとりでゴスペル・コンサートを開きますので、是非お越しください」と誘っただろうか。社会的マイノリティーの人権問題に関する講演会に誘っただろうか。それとも彼女の男性問題のルーツに光を当てるためにカウンセリングをしただろうか。ステンドグラスで飾られた白亜の建物を指さして、微笑みながら「日曜日の朝10時から礼拝があるので、ぜひ参加してください」と誘っただろうか。

 買ってきた昼食を食べるように勧める弟子たちに対する御子の答えは、とても意味深い。

31-34

31 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。

32 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。

33 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。

34 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。

  肉体的には疲れて、空腹であったはずの御子は、この時点では「弟子たちの知らない食物」によって満たされていたのである! そしてその食物とは、「父なる神の御心を行い、その御業を完成させる」その奉仕そのもののことであった。

 これは日々の糧として備えられていたマナとも異なる、安息日に幕屋の中で大祭司アロンとその子らだけが聖所の中で食べるように命じられていた十二個の聖なるパンにおいて予示されていた、御霊の導きにへりくだり、主なる神に恭順を尽くして仕えるときに与えられる「霊的糧」であり、私たちの肉体的・社会的・物質的状況にかかわらず、私たちの心を深く満たしてくれる「いのちのパン」である。

レビ記24:5-9

5 あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。

6 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。

7 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。

8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。

9 これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」。

 私たちが所属している地域教会や団体、組織によって企画される様々な奉仕や、自分の使命だと信じて行っている働きにおいて、何か深いところで飢え渇きを感じる時、それは私たちが一旦立ち止まり、御子イエスの御前に静まり、自分が何を糧に生きているか、再確認を促す「御霊によるシグナル」ではないかと思う。

 

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