an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの体(5)自己防衛本能

 去年の十月、自宅の窓の修理をしている時、バランスを崩して梯子から落ちてしまった。幸い左手小指の骨折程度で済んだからよかったが、もし手で衝撃を緩和していなかったら頭を直接ぶつけていたかもしれないので、それを考えれば感謝であった。

 私自身、梯子から落ちてながらこれから何が起きるのかを判断し、柔道家がするように手を出したわけではなく、ただ「条件反射」によって体が自らを守るために勝手に動いたのである。

 勿論、訓練すればより鋭敏で的確な反応ができるのだろうけれど、そのような訓練とは縁のない生活していている私の体が咄嗟にそのような反応したのは、人体に自己防衛の本能がもともと備えられているからである。

 サッカーボールが不意にあなたの顔に向かって飛んで来たら、あなたが咄嗟に手でその衝撃から身を守るだろう(それがサッカー選手なら自然にヘディングするのだろうか)。小さな虫が飛んできて目に入りそうになったら瞼は勝手に閉じるし、気管に異物が入ったら咳をし、鼻に入ったらクシャミをする。すべてが自己防衛の本能による条件反射である。

 肉眼においては見えない現象においてもそれは同様で、外来性ウィルスが体内に侵入すると免疫応答がおきるのも、本人が意識しているいない関係なく、人間の体にそのような自己防衛本能が与えられているからである。

 この機能は「キリストの体」つまり全ての信徒たちの霊的共同体においても同じものが与えられている。その霊的機能は、特殊な状況における聖霊の導きによる「識別力」や「知恵」に基づく言葉や行動となって顕れる。

 新約聖書の中で非常に興味深い一例がある。 

ユダ3-4(新改訳)

3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

4 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

 3節を岩波翻訳委員会訳は以下のように訳している。

愛する者たちよ、私たちの共通の救いについて私はあなたがたに書こうと本気で考えていたが、〔今や〕ひとたび聖なる者たちに伝えられた信仰のために戦うよう、励ますため、私にはあなたがたに書く必然性が生じた。 

  ユダ(十二使徒のひとりとして選ばれていたのに主イエスを裏切ったイスカリオテのユダではなく、主イエスの実弟の一人のユダである。1節参照)は、恵みによって受けた魂の救いに関して全般的な手紙を書こうとしていたが、聖徒たちの交わりの中に「不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」ことを聞き、手紙の内容を急遽変更するように聖霊によって導かれたことを示している。

 特に「救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが」という箇所は、ユダが救いに関する手紙を書こうとしながら、不思議と心の中に激しい葛藤が生れ、何度もそのことに関して主から来る思いなのか自問したり、祈りの中で導きを求めたりしたことが暗示されていて、それは信仰者ならば実にリアルに伝わってくるものではないだろうか。

 信仰者のうちにおられる聖霊は、「キリストの体」の肢体を神の知恵によって導き、お互いがいたわり合い、悪の攻撃から身を守るように働いてくださるのである。

Ⅰコリント12:25-27

25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。