an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

デスモンド・ドス氏の証し


映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』*

 コメントにおいて紹介されたドキュメンタリーにとても心を打たれたので、記事でも紹介したい。「戦争とキリスト者」というテーマにおいて、このデズモンド・ドス氏が選んだあり方は、まさに「世の光」「地の塩」と言える証だと思う。

 ドキュメンタリーを観ながら、御子イエスの次の御言葉を思い出していた。

ヨハネ15:12-17

12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。

17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

 「友」どころか「敵」でしかなかった私たちの救いのために、御子イエスはご自身のいのちを捧げてくださった。

 御子は「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と友としての前提条件をつけながらも、直後に「わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」と言われた。弟子たちはその時点で御子から知らされたことを行っていたのだろうか。福音書を読む限り、弟子たちの言動は御子の友としての前提条件を満たしていると言うには程遠いものであったことがわかる。それでも御子は「私はあなたがたを友と呼んだ」と言われたのである。

 私は御子の命じたことをどれだけ実践しただろうか。しかしその一方的な愛によって、御子は私を友と呼んでくださる。

 そして私の隣人、私のことを理解しようとせず、むしろ侮蔑し、敵対心を示す隣人の救いのためにも、ご自身のいのちを捧げてくださったことを気付かせてくださるのである。

 

追記(2017/01/25):

 ちなみにドス氏がセブンスデー・アドベンティスト教会の教えに従い、土曜日を安息日として尊守していたことがドキュメンタリーの中で語られているが、その尊守が「救いを得るために功徳」として扱われない限り、新約聖書の教え「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。」(ローマ14:5-6a)の教えに基づき、その選択は尊重されるべきだと思う。私個人は「どの日も同じだと考える」立場をとっている。

 以下の記事のコメント欄において、安息日に関する私の立場と「安息日を重んじる」立場の方の意見交換があるので、参照までに。

王の家の窓から見下ろすミカル - an east window

サン・レーオの要塞 カリオストロとフリーメイソン - an east window

 

追記2(2017/01/26):

 第二次大戦下のイタリアでは、武器をとって戦うことに対してだけでなく、武力を行使する軍隊に属することすら拒否し、ユダヤ人と同じ強制収容所に送られたキリスト者がいたという証を聞いたことがある。信仰によってドス氏のような選択肢を取るか、または強制収容所で自分の信仰による選択の責任を取るか。各自、主から与えられた良心によるものだし、何よりも、永遠の神の計画によって主が最適な器を最適な状況で用いるのだろう。

 

追記3(2017/02/05):

 ドス氏のテーマを扱った映画を観たが、大いに考えさせられた。というのは、沖縄における戦闘のシーンで、何度も仲間の兵士が迫りくる日本兵を撃ち殺すことでドス氏が守られる場面があったからだ。ドス氏自身、兵器を全く持たず、戦闘で傷ついた仲間の兵士の命を救うために戦場を駆け巡ったその勇気は驚異的だと思うが、それを「信仰的正義」と結び付けることができるほど単純な問題ではないのではないかと思う。

 例えば自分自身では偽証しなくても、友人や同僚の偽証によって自分が間接的でも何かしら益を得るとしたら、信仰者としてやはり良心の呵責を感じるはずである。

 また不正行為で得た金銭の献金を教会は受け取らない。教会自体、その不正行為を犯してなくても、間接的にその不正を承認することになり得る、と考えるからである。

 とてもデリケートな課題である。