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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「傷痕」

『生物と無生物のあいだ』

福岡伸一著(講談社現代新書1891)

P162、163から引用

 よく私たちはしばしば知人と久闊(きゅうかつ)を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。

(引用終わり)

 自分自身の体をじっくり観察して、火傷の痕や傷痕、手術の痕などが何か所にあるか数えてみたことがあるだろうか。そのような傷痕が全く無いという人はほとんどいないだろう。誰でも子供の時に遊んでて怪我した痕や、自転車やバイク、自動車の事故の怪我の痕、火傷や手術による縫合の痕など、改めて数えてみたら結構な数があるのではないだろうか。

 よく考えてみればとても不思議ではないだろうか。生物学者が言うように、もし私たちの肉体の全てが分子レベルにおいて半年ですっかり入れ替わるのなら、なぜ外的作用による後天的な傷痕がそのまま残るのであろうか。肉体は傷口を治す力を持っているのに、傷痕をほぼそのまま残すのである。

 歳月の経過と共に、肌はハリを失い、皺が増え、老いのしるしが確実に肉体の様相を変えていくのに、傷痕はほぼそのままの状態で残されていく。

 こんな比較をしたら生物学者に笑われてしまうかもしれないが、例えば事故を起こして車のドアが凹んでしまったとする。上手く修理できても、よく見れば修理の痕跡を見つけることができるかもしれない。しかし完全に新しいドアに交換したら、事故の痕があるはずがないのである。

 使徒パウロはキリストの十字架の福音によって回心し、全く新しい人生を歩みはじめた。それは回心前のパウロの「改良版」ではなく、「修復品」でもなかった。全く新しい、キリストのいのちによるものであった。

ガラテヤ2:19-20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

Ⅱコリント5:17

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

 それはまた一度きりの経験ではなく、内なる聖霊の力による、継続的な日々の体験であった。

Ⅱコリント3:18

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

 それにもかかわらず、新しくされ、日々改新されていた使徒パウロの心には、回心前の「傷痕」が晩年に至るまでそのまま残っており、彼自身、自分の証しの中で何度も言及していたのである。

Ⅰコリント15:9

実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 

使徒22:3-5

3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。

4 そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。

5 このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。 

使徒26:9-11

9 わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。

10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。

11 それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。 

ガラテヤ1:13

ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。 

 これは信仰者の集合体であるキリストの体においても言える真理である。ある「体」の部位は、他の部位よりも深い「傷」を負うことがある。それは誰かが意図的に負わせた「傷」かもしれないし、自分の怠慢や不注意によるものかもしれない。

 いずれにせよ、その「傷」は神の力によって癒される。しかし、その部位には周りの人々の注意を引くような「傷痕」が残され、それが恵みの福音のために用いられるのである。

 私たちも、もっと私たちに対する主なる神の選びの御心と崇高な知恵に信頼し、キリストの恵みの証人として大胆に生きてもいいのではないかと思う。たとえ私たちの心が、「火傷の痕」や「傷痕」で覆われていたとしても…

Ⅱコリント12:9-10

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。