an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(3)

Ⅰコリント6:1-11

1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。

2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。

8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

 使徒パウロはここで、地域教会の中で起きた問題に対して「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出す」、つまり公の裁判の場に持ち込み、裁きを不信者に任せることが、その地域教会全体にとって「恥ずべきこと」であり、「敗北」であり、「不義」であると断罪している。

  • わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。
  • そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。
  • しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。

  「恥ずべきこと」であるのは、その地域教会の中に「兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいない」ことを証明しているからだ。勿論、ここでは人間的な知恵や知的レベルについて語っているのではなく、「神の霊的賜物としての知恵」であり、それは信仰をもって求めるものには必ず与えられると約束されている種類のもの、「上からの知恵」だからである。

ヤコブ1:5-8

5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。

7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。

8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。 

ヤコブ3:13-18

13 あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。

14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。

15 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。

16 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。

17 しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

18 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

 また「敗北」であるのは、地域教会の中で起きた不義に対して、神の知恵や正義に委ねず、人間的知恵や地上的正義による裁きに委ね、それで自分に対して犯された悪に報おうとするからだろう。

ローマ12:17-21

17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 だからこそ使徒パウロは、このテーマの中で「神の絶対的・最終的な正義」を提示しているのではないだろうか。

Ⅰコリント6:9-10

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 

 神の義によって統治されている神の国のことを考慮せず、地上的な知恵と正義に裁きを委ね、自分の義を立てようとする行為が、「恥ずべきこと」であり、「敗北」であり、「不義」であると主張しているのである。

 実際、たとえ自分はクリスチャンであると主張し、自分の正しさを公共の裁判の場で証明し、その裁判で勝訴したとしても、兄弟を訴えたことで主なる神に「恥ずべきこと」「不義を働いた」と判断され、「敗北」と見做されるのなら、私たちは神を畏れなければならない。

 このようなことを考慮すると、教会の中で正しく裁こうとすることが神の恵みを損なうのではなく、むしろ「さばくな」「神は愛である」と言って問題から目を逸らし、対処する責任から逃避することが、その問題を教会の外へと追い出し、不信者の前に持ち出されることになり、キリストの体を余計傷つけることになるのではないだろうか。

 「兄弟姉妹の交わりにおける健全な裁き」つまり御言葉を基として互いに訓戒し合うことを、神の愛や神の恵みと分離したり、対置してはならない。それは一つのものであり、神の栄光と私たちの救いのために互いに干渉し合いながら、キリストの体である教会に働きかけるものだからである。

Ⅰコリント13:4-6

4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、

5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 

テトス2:11-13

11 すべての人を救う神の恵みが現れた

12 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。