Ⅰコリント12:4-27
4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
5 務は種々あるが、主は同じである。
6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
15 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
16 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
17 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
19 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
20 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
21 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、
23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、
24 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
「霊の賜物(χάρισμα charisma)」も「務め(διακονία diakonia/minister)」も「働き(ἐνέργημα energēma)」も色々あるが、「すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである」
「全体の益になるため」に、「御霊は思いのままに、御霊の賜物を各自に分け与えられるのである」
「神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである」
この箇所において「神の絶対的主権と全てを貫く中心性」の真理を強調する形で、信仰者を「キリストの体」として示しているのは非常に重要である。
人種や性別、社会的身分の違いを超えて信仰者の集まりが一つであるのは、神がそのように望んだからであり、また各自がキリストの体の中にあって異なる肢体と見なされているのは、神の主権的み旨によるのである。
誰も自分が望み、また努力によってキリストの体における特定の肢体、例えば「目」となるわけではない。また他の誰かが「口」となったことに対して、その人の努力によって獲得したポジションと考えることはできない。全て主なる神のみ旨のままに備えられたのである。
だから「左手」は「右手」に向かって「私はあなたと同じ地位であり、あなたと同じこと、いやそれ以上のことができる」と誇ることはできない。主なる神は、「右手」と「左手」が互いに補う合う肢体として定められたのである。「目」は「耳」と同じではないし、同じ働きをすることができないが、それは互いに協力してそれぞれの機能が補い合って働くように創られたからである。
それゆえ「キリストの体」つまり教会は、本質において相補的な存在なのである。それは教会を構成する男女の人間という要素のアイデンティティーとしてもそうであるし、機能性、つまり「霊の賜物」「務め」「働き」のすべてにおいても相補的である。それぞれの肢体は独立しては存在できず、各肢体の機能は自身のためだけでは意味をなさないからである。