an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはず」

へブル5:11-14

11 このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。

12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。

13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。

14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。 

 『へブルびとへの手紙』が誰によって書かれた、またいつ、どこで書かれたのか、正確な情報はないが、エルサレムの神殿の祭儀について現在形を使って語られていることから、少なくとも神殿が破壊される西暦70年前に書き記されたことは確かである。

 そしてこの手紙が書かれた時代、つまり初代教会の時代には、現代のように印刷された聖書を誰もが所有できるような恵まれた環境はなく、有名エリート大学の神学部も、教団による聖書学校なども存在せず、神学書も解説書も、インターネットによるリサーチも、何一つ存在していなかった。

 それでもこの手紙の筆者は、手紙の読者であるユダヤ人キリストらに「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはず」と書いている。実際には「もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である」と続けている通り、初心者のような知識と態度を取っていたわけだが、筆者の「信仰者の霊的成長のスタンダード」によれば、彼らは義の教師になっていなければいけなかったのである。

 それは筆者自身が聖霊の導きと光、そして御言葉の力と有益性を体験していたからであり、その体験は信徒全体のスタンダードだったからである。

ヨハネ14:26

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。

ヨハネ15:26

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。 

ヨハネ16:13-14

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 

Ⅰヨハネ2:27

あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。 

Ⅱテモテ3:15-16

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 たとえ個人では聖書を所有できなくとも、「キリストの体」としての教会の霊的な交わりの中で、互いに教え合うことによって、その成長が促されていた。

コロサイ3:16

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

 勿論、この記事は初代教会を理想化するものではないし、私たちの知的プライドを刺激をするためのものでもない。そしてヤコブの言葉もまた、真理である。教師とは、ただ「人より知識をもち、教えることができる者」ではないからである。

ヤコブ3:1

わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。 

 しかし地域教会の信徒の交わりの中で相互的に高められ、その集まりの中から特に教えの賜物をもつ年長者がグループをまとめる奉仕につく方が、どこかの神学校卒業のタイトルを持つだけで霊的識別力も社会経験も浅い若者をいきなり「新任牧師」として任命するよりも、よほど健全だと思うのは私だけだろうか。

 初代教会が持っていて現代の多くの教会に欠けているものを認めることは、彼らが持っていなかったが現代の教会には与えられているものをより霊的に実を結ぶように用いるためにも、欠かすことができないのではないかと思う。