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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

金銀の冠を被った大祭司ヨシュアに対して語られた預言(2)「枝」

ゼカリヤ6:9-13

9 主の言葉がまたわたしに臨んだ、

10 「バビロンから帰ってきたかの捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤおよびエダヤを連れて、その日にゼパニヤの子ヨシヤの家に行き、

11 彼らから金銀を受け取って、一つの冠を造り、それをヨザダクの子である大祭司ヨシュアの頭にかぶらせて、

12 彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。

13 すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある』。

 「見よ、その名を枝という人がある。」

 預言者ゼカリヤが啓示を受けた「枝」という名の人物は、王の位に座し、主の宮を建てることが預言されている。

 同じ「枝」の啓示を預言者ゼカリヤはすでに受けていた。第三章には「罪を取り除き、平安と繁栄をもたらす、主の僕(しもべ)なる枝」としての啓示が記されている。 

ゼカリヤ3:8-10

8 大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。

9 万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。

10 万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」。

 神の祝福を受け、聖別された王である君であるメシアに対して、「実を結ぶ木」や「枝」のシンボルを使うのは、ヨセフに対するヤコブの預言まで遡ることができる。

創世記49:22-26

22 ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。そのは、かきねを越えるであろう。

23 射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。

24 しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、

25 あなたを助ける父の神により、また上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による。

26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。 

 ここで「枝」と和訳されている原語【בּת bath】は、「若木」として訳されている【בּן bên】の女性形から派生する単語で、男性形と同様、様々な意味をもつ(男性形は「人、息子、民、枝」など、女性形は「娘、村、枝」など)。ここでは兄弟の君(nâzir ナジル 分離した者、献身した者)とされているヨセフが、全能者なる神の祝福を受けて、その「枝」が垣根を超えるほど大いに成長し、豊かに実を結ぶ「若木」である、と預言されている。これは明らかなメシアに関する預言である。

 詩篇80篇は、おそらくこのヨセフに対する祝福の預言を念頭におき、書き記されたものであると言える。主なる神を「ヨセフを導かれる者」と呼び、エフライムとマナセ(ヨセフの子)やベニヤミン(ヨセフの唯一の実弟)の子孫のために祈っているからである。

詩篇80:14-15

1 聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたアサフのあかしの歌

イスラエルの牧者よ、羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けてください。ケルビムの上に座せられる者よ、光を放ってください。

2 エフライム、ベニヤミン、マナセの前にあなたの力を振り起し、来て、われらをお救いください。

3 神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。

4 万軍の神、主よ、いつまで、その民の祈にむかってお怒りになるのですか。

5 あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました。

6 あなたはわれらを隣り人のあざけりとし、われらの敵はたがいにあざわらいました。

7 万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。

8 あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。

9 あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。

10 山々はその影でおおわれ、神の香柏はその枝でおおわれました。

11 これはその枝を海にまでのべ、その若枝を大川にまでのべました。

12 あなたは何ゆえ、そのかきをくずして道ゆくすべての人にその実を摘み取らせられるのですか。

13 林のいのししはこれを荒し、野のすべての獣はこれを食べます。

14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。

15 あなたの右の手の植えられた幹と、みずからのために強くされた枝とをかえりみてください。

16 彼らは火をもってこれを焼き、これを切り倒しました。彼らをみ顔のとがめによって滅ぼしてください。

17 しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の子の上においてください。

18 そうすれば、われらはあなたを離れ退くことはありません。われらを生かしてください。われらはあなたのみ名を呼びます。

19 万軍の神、主よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。  

 ここで興味深い点は、非常に多様な単語が使われていることである。これはこの詩篇が創世記よりも後代、つまりイスラエルの民が約束の地に定住し、エジプトの奴隷や荒野の遊牧民であった民に農耕文化が定着した後の時代に書き記されたことを暗示しているかもしれない。

あなたは、ぶどうの木(גּפן gephen)をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。

あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。

山々はその影でおおわれ、神の香柏はその(ענף ‛ânâph)でおおわれました。

それはその(קציר qâtsı̂yr)を海にまでのべ、その若枝(יונקת yôneqeth)を大川にまでのべました。

万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。

あなたの右の手の植えられた(כּנּה kannâh)と、みずからのために強くされた(בּן bên)とをかえりみてください。

しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の(בּן bên)の上においてください。

 紀元前8世紀の預言者イザヤの時代から、より頻繁に、また明確に「枝=メシア」の概念が預言として啓示されている。 

イザヤ4:1-4

1 その日、七人の女がひとりの男にすがって、「わたしたちは自分のパンをたべ、自分の着物を着ます。ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥を取り除いてください」と言う。

2 その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄となる。

3ー4 そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。 

 ここで「枝」と和訳されている原語は【צמח tsemach】である。「主の枝」とあり、主なる神から生れ、その方に属していることが特記されている。

イザヤ11:1-12

1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、

2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

3 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、

4 正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。

5 正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。

6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、

7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、

8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

10 その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。

11 その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。

12 主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。

13 エフライムのねたみはうせ、ユダを悩ます者は断たれ、エフライムはユダをねたまず、ユダはエフライムを悩ますことはない。

 「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」の中の「若枝」と和訳されている原語は 【נצר nêtser】である。エッサイはダビデ王の父の名である(ルツ記4:17参照)。つまりユダ族のエッサイから、その子孫であり、世を正義と忠信をもって統治し、平安と調和をもたらし、主の民を各地より贖い出す「若枝」、つまりメシアが生れることを預言している。

 使徒パウロはこのイザヤの預言をLXX訳から『ローマ人への手紙』の中で引用し、主なる神がイスラエルの民だけでなく、異邦人にも救いの手を差し伸べたことを論証している。

ローマ15:8-12

8 わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、

9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである。

10 また、こう言っている、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。

11 また、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。

12 またイザヤは言っている、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。 

 また『黙示録』の中では、「エッサイの根から生え出る若枝」としてのメシアの概念を発展させたと思われる表現が記されている。

黙示録5:5

すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。

 

(新改訳)

すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

黙示録22:16

わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。

 

(新改訳)

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

 エルサレム陥落とバビロニア捕囚が迫っていた時代に生きた預言者エレミヤの書においても、来るべきメシアが「枝」としてさらに発展した啓示がなされている。

  • 民を養う牧者/王として神から立てられた「正しい枝(צמח tsemach)」

 エレミヤ23:1-6

1 主は言われる、「わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者はわざわいである」。

2 それゆえイスラエルの神、主はわが民を養う牧者についてこう言われる、「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追いやって顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いによってあなたがたに報いると、主は言われる。

3 わたしの群れの残った者を、追いやったすべての地から集め、再びこれをそのおりに帰らせよう。彼らは子を産んでその数が多くなる。

4 わたしはこれを養う牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる。

5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。

6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。 

  • 「神の正義の顕れ」としての「正しい枝」

エレミヤ33:14-16

14 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。

15 その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。

16 その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。

 このようにバビロニア捕囚前にも「主の枝なるメシア」の啓示は段階的に記されており、それが捕囚から帰還した民に対して預言者ゼカリヤを通してより明確に告げられ、そして時が満ち、御子イエスによって完全に成就したのである。

 それゆえ、御子イエス・キリストの啓示は、「根も葉もない」空想話でも理念でもなく、しっかりと「根」を張り、神を喜ばす実を結ぶ「枝」をもった、希望の福音である。

 

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