an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

この幼な子のように

マタイ18:1-5

1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。

2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、

3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。

4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

マルコ10:13-16

13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。

14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。

15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。 

 「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」

「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」

 これらの主イエスの御言葉は、私たちが元々神の目には「幼子のよう」でなく、そのままでは神の国に入ることができない存在であることを明確に示している。私たちは「心を入れ替え(στρέφω strephō 直義:向きを変える)」、そのままの状態から幼子のように「ならなければ」神の国に入ることは決してできないというのである。

 勿論、この真理は私たちの人間的努力によって「幼子のように」なり、神の国に入る切符を獲得するという意味ではない。それはあくまで信仰によるもので、人間の功徳によるものではないことは、二番目の聖句の「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ」という箇所が示している。

 幼子は親の愛情を疑わない。自分に必要なものを与えてくれることを信じているのである。だからこそお腹が空いたらぐずったり、泣いたりしてそれを主張するのである。もしその幼子が親のことを信じていなかったら、自分で何とか食べ物を手に入れようとするだろう。

 だから「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ」とは、天の父なる神が御子を通して用意してくださった神の国が、自分にも与えられているという恵みの福音を、疑わずそのまま感謝して受け入れることであり、「心を入れ替える」とは、それを自分の宗教的・倫理的努力で獲得することができるという幻想を捨てて、恵みの福音をそのまま信じることである。

 御子イエスに呼び寄せられ、弟子たちの間に立たされた幼子には、「大人の事情」など全く理解できなかった。自分の目の前に立つ「大人たち」に比べて、知識も経験も力も何一つ持っていなかった。ただ主イエスの近くに立っているしかできなかった。しかしそのような幼子を指し、主イエスは「この幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」と言った。

 これは天の父なる神が地上に御子を遣わし、地上のあらゆる「大人たち」の前で、「この子のように」と御子を示し、祝福していることを暗示している。

ピリピ2:6-15a

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、

11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。

13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。

15a それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。