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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「ユダヤ人」「ヘブル人」「イスラエル人」の呼称に関する検証

 「ユダヤ人」(ヘブライ語:יהוּדי yehûdı̂y ギリシャ語:Ἰουδαῖος Ioudaios)という呼称は、元をたどるとヤコブと妻レアの四男ユダの名前から派生したものである。

創世記29:35

彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。そこで彼女の、子を産むことはやんだ。

 レアの言葉からもわかる通り、ユダ(יהוּדה yehûdâh)という名の本来の意味は、「賛美する」という実に美しいものである。(キリスト教圏においては裏切者イスカリオテのユダの強烈なイメージがあるので、個人名として使われることはまずあり得ないないが、それこそユダヤ人の間では現在に至るまで使われていることが、その名の本来の意味の価値を示している。)

 イスラエルの民がエジプトから出るころには、十二部族のうちのひとつの部族として、ユダの子孫全体が「ユダ」と呼ばれていた。

申命記33:1;7

1 神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した。祝福の言葉は次のとおりである。

7 ユダについては、こう言った、「主よ、ユダの声を聞いて、彼をその民に導きかえしてください。み手をもって、彼のために戦ってください。彼を助けて、敵に当らせてください」。 

士師1:1-2

1 ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。

2 主は言われた、「ユダが上るべきである。わたしはこの国を彼の手にわたした」。 

 その後、ユダ部族の中から有名なダビデが生れ、王として国を治めた。しかしダビデ王の孫のレハベアムの治世に、その王国​は​北​​イスラエル王国​と​南​ユダ王国​に​分裂​し、レハベアム​は​ユダ王国​を​治めた。

列王上11:30-36

30 アヒヤは着ている着物をつかんで、それを十二切れに裂き、

31 ヤラベアムに言った、「あなたは十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる、『見よ、わたしは国をソロモンの手から裂き離して、あなたに十部族を与えよう。

32 (ただし彼はわたしのしもべダビデのために、またわたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだ町エルサレムのために、一つの部族をもつであろう)。

33 それは彼がわたしを捨てて、シドンびとの女神アシタロテと、モアブの神ケモシと、アンモンの人々の神ミルコムを拝み、父ダビデのように、わたしの道に歩んで、わたしの目にかなう事を行い、わたしの定めと、おきてを守ることをしなかったからである。

34 しかし、わたしは国をことごとくは彼の手から取らない。わたしが選んだ、わたしのしもべダビデが、わたしの命令と定めとを守ったので、わたしは彼のためにソロモンを一生の間、君としよう。

35 そして、わたしはその子の手から国を取って、その十部族をあなたに与える。

36 その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。 

列王上12:19-20

19 こうしてイスラエルはダビデの家にそむいて今日に至った。

20 イスラエルは皆ヤラベアムの帰ってきたのを聞き、人をつかわして彼を集会に招き、イスラエルの全家の上に王とした。ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった。

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 アッシリア帝国の手による北イスラエル王国の滅亡(前722年)以降、ユダ王国に残っていた人々のことが「ユダヤ人」(יהוּדי yehûdı̂y)と呼ばれるようになり、バビロニア帝国によるエルサレム陥落(前587年頃)と捕囚期以降には、さらに広範囲に意味をもつようになった。

 実際、エルサレム陥落の時代に生きた預言者エレミヤの書において、「ユダヤ人」という名称が、族長ヤコブの子孫全般を示す「ヘブル人」(「国境を越えてきたもの」「川向こうから来た者」の意味。創世記40:15;サムエル上4:6;13:3参照)と同義語として使われている。

エレミヤ34:8-9

8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を立てて、彼らに釈放のことを告げ示した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。

9 その契約はすなわち人がおのおのそのヘブルびとである男女の奴隷を解放し、その兄弟であるユダヤ人を奴隷としないことを定めたものであった。 

 さらにペルシア帝国の首都スサに捕囚されていたへブル人全般のことが「ユダヤ人」と呼ばれていたことが『エステル記』に記されている。(ユダ族ではなくベンヤミン族に属してしたモルデカイが、「ユダヤ人」と呼ばれている。) 

エステル2:5

さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子で、ベニヤミンびとであった。

エステル6:10,13

10 それで王はハマンに言った、「急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」。

13 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。 

エステル10:3

ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

 新約聖書における使徒ペテロは、このような広義的な使い方で「ユダヤ人」という名称を使っている。 

使徒10:28

ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。

 使徒パウロも同じ意味で自分のことを「ユダヤ人」と呼んでいる。勿論、彼自身の証しからもわかるように、彼はユダ族ではなく、ベンヤミン族の出身であった。

使徒21:39

パウロは答えた、「わたしはタルソ生れのユダヤ人で、キリキヤのれっきとした都市の市民です。お願いですが、民衆に話をさせて下さい」。

使徒22:3

そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。 

ローマ11:1b

わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。

ピリピ3:5

わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 

 そして『ガラテヤびとへの手紙』の文脈の中で、ケパつまりペテロやバルナバ(レビ族出身 使徒4:36参照)、他の割礼者たちを含めて、「わたしたちは生れながらのユダヤ人である」と証ししている。

ガラテヤ2:11-16a

11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。

12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。

15 わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、

16a 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。

 だから使徒ペテロや使徒パウロによれば、「ユダヤ人」というカテゴリーはユダ族だけを示しているのでなく、「へブル人」や「イスラエル人」、「アブラハムの子孫」と同様、部族の違いを超えた包括的な呼称であることが理解できる。 

Ⅱコリント11:22

彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。 

 ピシデヤのアンテオケの会堂におけるパウロの宣教の言葉からも、「イスラエルの人たち」「兄弟たち」「アブラハムの子孫のかたがた」「ユダヤ人たち」が、同義語として使われていることがわかる。

使徒13:14-45

14 しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

15 律法と預言書の朗読があったのち、会堂司たちが彼らのところに人をつかわして、「兄弟たちよ、もしあなたがたのうち、どなたか、この人々に何か奨励の言葉がありましたら、どうぞお話し下さい」と言わせた。

16 そこでパウロが立ちあがり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい。

17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。

18 そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、

19 カナンの地では七つの異民族を打ち滅ぼし、その地を彼らに譲り与えられた。

20 それらのことが約四百五十年の年月にわたった。その後、神はさばき人たちをおつかわしになり、預言者サムエルの時に及んだ。

21 その時、人々が王を要求したので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間、彼らにおつかわしになった。

22 それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた。

23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られたが、

24 そのこられる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に悔改めのバプテスマを、あらかじめ宣べ伝えていた。

25 ヨハネはその一生の行程を終ろうとするに当って言った、『わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしのあとから来るかたがいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値うちもない』。

26 兄弟たちアブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救の言葉はわたしたちに送られたのである。

27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。

28 また、なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。

29 そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬った。

30 しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。

31 イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている。

32 わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えているのである。

33 神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二篇にも、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。

34 また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、いつまでも朽ち果てることのないものとされたことについては、『わたしは、ダビデに約束した確かな聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』と言われた。

35 だから、ほかの箇所でもこう言っておられる、『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』。

36 事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えたが、やがて眠りにつき、先祖たちの中に加えられて、ついに朽ち果ててしまった。

37 しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。

38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、

39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。

40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。

41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。

42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。

43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。

45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。  

 さらに主イエス・キリストの恵みによって救いを受けた使徒パウロにとっては、「へブル人」とか「ユダヤ人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」という名称は、キリストにおいて霊的に昇華され、いわゆる「肉的・地上的要素」は価値を失っていたのである。

ローマ2:28-29(塚本訳)

28 なぜなら、みかけだけのユダヤ人はユダヤ人ではなく、みかけだけの肉的な割礼は割礼ではない。

29 隠れた(心の中の)ユダヤ人こそ(まことのユダヤ人、)また(律法の)文字によらない、霊的な心の割礼こそ(まことの割礼であり、こんなユダヤ人が、)人間からでなく、神からの栄誉をうけるのである。

ピリピ3:5-9

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

ガラテヤ3:28-29

28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。 

 よって「ユダヤ人」という名称を「ユダの子孫」という意味に限定したり、「イスラエル人」を「十部族」に限定する見解は新約聖書の中には存在せず、「ユダヤ人」「ヘブル人」「イスラエル人」の呼称の違いについて偏執することは、「果てしない系図についての議論」同様、不毛なことである。

Ⅰテモテ1:4

作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。 

テトス3:9

しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。

 ちなみに新約聖書において「部族」についての言及がある時には、【φυλή phulē】という単語が使って具体的に記述している。

ルカ2:36

また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。

黙示5:5

すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。

黙示7:3-8

3 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。

4 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。

5 ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、

6 アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、

7 シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、

8 ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。

 

追記(2016年12月15日)

 ちなみにイタリア語においては、聖書時代のイスラエル人を【ISRAELITA(単数形 男性/女性)】と呼び、また現代の政治国家イスラエルで生活していないヘブライ人に対しても使われていて、政治国家イスラエルの国民を指して使われる【ISRAELIANO(単数 男性)/ISRAELIANA(単数 女性)】と区別化されている。