an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書原語とカタカナ表記に関する考察

 ギリシャ語新約聖書において116回使われている【αγαπη】という抽象名詞は、カタカナで表記すると【アガペー】であり、日本語聖書において【愛】と訳されている。

 しかし聖書やキリスト教になじみのない多くの日本人の人々にとっては、「アガペー」という言葉を耳にしても、それはただ単なる聞き慣れない音であり、カタカナで書き記されているのを読んでも、それは【ア】と【ガ】と【ぺ】と【ー】という表音文字の一つの組み合わせでしかない。それぞれの文脈において的確な語義の知識と共有がなければ、「音」や「文字」でしかないのである。

 「それぞれの文脈において」と書いたのは理由がある。例えばイタリアの福音主義教会においては【AGAPE】というと「愛」という意味の他、「愛餐(教会の交わりにおいて一緒にする食事)」という意味でも使うからである。

 また【愛】という日本語における意味も、アガペーに「神の愛」という限定した意味を与え、「人間の愛」と区別する意見(*)もあれば、読む人それぞれのその【愛】という抽象名詞がもつ意味の範囲は微妙に異なるのである。

 (*)新約聖書におけるαγαπη】の定義付けを理念的にしてしまった結果で、聖書的根拠はない。

 だからこそ「それぞれ文脈が付与する意味」を確認し共有することが基本となるのである。

 例えば誰かが「聖書が啓示しているのは、【愛】ではなく【アガペー】である」と主張したとする。しかしこの場合、このような主張をしている人が【愛】と【アガペー】というそれぞれの単語にどのような意味を与えているか、実際に聖書自体がその中で定義している意味を与えて主張しているのか、という点が考慮されなければ、全くナンセンスな主張となるわけである。

 同じことがヘブライ語【תּורה】についても言える。この単語は旧約聖書39巻の中で48回、派生語も含めると222回使われ、IPA(International Phonetic Alphabet)表記で【toːrɔː】(ティベリア式発音)もしくは【tɔˈʁa】(現代ヘブライ語式発音)、カタカナ表記するならば【トーラー】と書き記され、日本語訳聖書では【律法】とか【みおしえ】【おきて】などと訳されている。
 この単語をもって、「聖書に書かれているのは【トーラー】であって【律法】ではない」と主張したところで、【アガペー】のケースと同様、それぞれの単語にどのような意味を与えているか、またその意味が聖書自体が定義している意味かどうかを確認・共有しなければ、それは無意味な主張である。

 例えば【トーラー】を使う時には聖書の中で定義されている意味を与えていても、【律法】を使う時に聖書の中で使われている意味では使わず、個人的な解釈による部分的・曲解的な意味で使っているならば、「聖書に書かれているのは【トーラー】であって【律法】ではない」と主張したところで、その意見は個人的な偏見による主張でしかないのである。

 日本人の中でもヘブライ語やギリシャ語のカタカナ表記に偏執して、会話や文章の中で多用し、日々日本語聖書をシンプルな心で読んで信仰に生きている日本人信仰者に難癖付ける者がいるので、この記事を書いておきたいと思った。

 大事なことは、口語訳でも新改訳でも英語訳でもいいから、「自分の聖書」として日々向き合いながら、一節一節、また一つ一つの言葉を咀嚼して、書き残された言葉を通して語りかけてくる「主イエス・キリストの声」に耳を傾けることだと思う。

ヨシュア記1:8

この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。 

詩篇1:1-3

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

ヨハネ14:23

イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 

 

関連記事: