『Pope Francis Declares Lucifer As God』に関する反証(1) - an east windowにおいてビデオの主張が論拠に欠けるものであると書いたが、私のこの記事の目的はフランシス教皇やカトリック教会の教義を弁護するものではないことを明記しておきたい。カトリックとかプロテスタント、福音派・聖霊派など教派・教団の違いは論点ではなく、人間が引いた境界線など超越している真理に対するアプローチに関して検証したいと思っているのである。
Ⅱペテロ1:19においては、ラテン語で【Lucifer】と訳されている原語【phōsphoros】は御子イエス・キリストを示していることを記述したが、それは使用されている一つの単語の問題というよりは、その言葉が持つ意味の問題である。
実際、黙示録においては異なる単語が同じ意味で使われているからである。
黙示録22:16
わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
「輝く明けの明星」は、テクストゥス・レセプトゥスでは【ο αστηρ ο λαμπρος και ορθρινος】で【ὀρθρινός orthrinos】を使い、アレクサンドリア写本やビザンティン写本、ウェストコット・ホートでは【πρωινοσ proinos】を使っている。つまり如何なる単語を使ったとしても、「明けの明星」はイエス・キリストを示しているのである。
そして新約聖書においては悪魔もしくはサタンの称号として「明けの明星」が使われていることは一度もない。
以下のリストは新約聖書のおいて悪魔の呼称として使われている表現のリストである。
- 悪魔 サタン(黙示12:9)
- 全世界を惑わす年を経たへび(黙示12:9)
- 訴える者(黙示12:10)
- 誘惑者(マタイ4:3;Ⅰテサロニケ3:5)
- ベルゼブル(マタイ12:24、27;マルコ3:22;ルカ11:15,19)
- 敵(マタイ13:39;Ⅰペテロ5:8)
- 悪い者(マタイ13:19,38;Ⅰヨハネ2:13、3:12、5:18)
- ベリアル(Ⅱコリント6:15)
- 大きな竜(黙示12:3)
- 偽りの父(ヨハネ8:44)
- 人殺し(ヨハネ8:44)
- 罪を犯す者(Ⅰヨハネ3:8)
このリストから明確に伝わってくることは、【phōsphoros】そしてそのラテン語訳【Lucifer】が本来有している「光を持つ者」という意味とは完全にかけ離れていることである。
また新約聖書はサタンが天の位からその罪の故に引き落とされ、神の最終的な裁きの時まで、永遠の束縛をもって下界の暗闇の中に閉じ込められていることを啓示している。
ルカ10:18
彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。
ヨハネ12:31
今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
Ⅱペテロ2:4
神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。
ユダ1:6
主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。
そしてその暗闇の中に閉じ込められているサタンが、「光の天使」を擬装するとも啓示している。
Ⅱコリント11:4
しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。
これは実に多くのことを私たちに暗示していないだろうか。私たちがサタンを「ルシファー」と呼ぶとき、実際は神の目には霊的暗闇の中に閉じ込められている者のことを「光を持つ者」と呼び、私たちがその擬装に騙されて誘惑に落ちるとき、本来、暗闇の牢獄の中で束縛されて者に自ら近づいて、手を取られてその中に引きずり込まれるようなものではないだろうか。何と恐ろしい現実だろうか。
それではなぜ新約聖書においても、また初代教会時代や教父時代においても主イエス・キリストの称号だった【phōsphoros】が、現代において悪魔の称号として「乗っ取られてしまった」のだろうか。
(3)に続く