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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

タルムードについて

聖書 知恵

 サイト『Come and Hear』のWhat is the Talmud?の記事は、タルムード特にバビロニアン・タルムードが現代のユダヤ人にとってどのような存在であるか、ユダヤ人のラビ、つまり霊的指導者らの観点から書かれていて、大変意義深いものである。

 特にタルムードの教師であり、アメリカ・ユダヤ神学セミナー(Jewish Theological Seminary of America)の校長であったルイス・フィンケルスタイン(Luis Finkelstein, 1895-1991)は、次の様に定義している。

パリサイ主義はタルムード主義となり、タルムード主義は中世ラビ主義となり、中世ラビ主義は現代ラビ主義となった。しかしこれらすべての名称の変化や風習の避けることのできない適応、戒律の調整において、いにしえのパリサイ人の霊は変わることなく生き続けている。

ユダヤ人が祈りを唱える時、彼はマカバイ期前の教師らが唱えた祈祷を唱えている。彼が贖罪の日や過ぎ越し祭のために定められたマントを纏う時、古代エルサレムの祭儀の衣を纏っている。

彼がタルムードを学ぶとき、実はパレスティナの神学研究において扱われたテーマを繰り返しているのだ。

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 つまり彼の主張によれば、現代のタルムード主義は、主イエス・キリストが地上において宣教活動をされた時代のパリサイ主義の延長線上にあり、これらの二つの体系は時代を超えて同じ霊によるものである、と言っているのである。

 サイトの筆者はこの点を、キリスト教とユダヤ教との間にある緊張した関係と結び付け、ヨハネ8:44を引用して、主イエスがパリサイびとに対してもっていた「個人的感情」を表している、と主張している。

あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。

 しかし誤解があってはならないのは、主イエスがパリサイびと(正確には文脈上、「ユダヤ人たち」しかも「主イエスを信じたユダヤ人たち」であり、そこにはパリサイ派に属していなかった人々も含まれていた。ヨハネ8:31参照)を厳しく糾弾していたのは、彼らが「パリサイ派」という当時の特定の宗派に属していたからではなく、彼らが自分たちの伝統や教えによって神の御言葉を無にしてたからであり、「個人的な感情」による非難ではなく、彼らの偽善が神の真理に対して反逆していたことを明らかにしていたのである。

 だからより適切な聖句を引用するとしたら、以下のエピソードのものであろう。

マルコ7:1-13

1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。

2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。

3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。

4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。

5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。

6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。

11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、

12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。

13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。

「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」

「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。」

「こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。」

 これが御子イエスがパリサイびとや律法学者に対して容赦なく指摘していた問題の本質である。

 実際、同サイトの同じページにおいて、タルムード発行のためのイスラエル研究所創立者であるラビ、ステインソルツは、「もし旧約聖書がユダヤ教の礎石ならば、タルムードは中心の柱であり、土台からそびえ立ち、霊的・知的建造物全体を支えている。多くの点でタルムードはユダヤの文化における最も重要な本であり、創造力やイスラエルという国の生命の基幹である。ユダヤ人の生活の理論や実践に対して、霊的内容を形作り、行動の指針として提供することで、これほどの影響を与えた作品はない。」と主張し、タルムードの重要性を強調している。

  ただタルムードの内容を検証するにあたって注意すべき点は、特にインターネットで日本語による検索する場合、タルムード本文の文脈を無視して引用しているケースが見受けられたので、原語による検証はヘブライ語の知識が必要なので困難だとしても、英訳における比較・確認・検証は少なくとも不可欠ではないかと思う。

 例えば、この日本語のサイトの【(実践篇6)、ユダヤ人の宗教上の秘密主義について】のところで、

「律法(この場合はタルムード)を研究する異邦人は死に値する」(Sanhedrin 59a)。

 と引用されている。

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 しかし前述のサイトの英訳で文脈を確認してみると、

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「トラーを研究する異教徒は死に値する」というラビ・ヨハナンの主張に対して、「トラーを研究する異教徒も大祭司のようである」というラビ・メイルの反論も書かれているのである。

 また、

「タルムードを学ぶゴイ、それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない」(サンヘドリン、五九、ア・アボダ・ゾラ、八の六。ザギガ、13)。

の引用は、「サンヘドリン59a/b」と「アボダ・ゾラ 8-6」の英訳において確認することができなかった。(しかし、もしかしたらこの節を引用した人が、異なるバージョンを利用していた可能性もあるが。)

 また、

「新約聖書を読むものは(脚注#九に正典ではない書物とある)来るべき世において立場はない」(サンヒドリン90a)

とあるが、【新約聖書】という単語は使われおらず、注釈を読むと【UNCANONICAL BOOKS(Lit., 'the external books')】は、グノーシス主義の影響がある書物について言及されており、ユダヤ教とプロテスタントにとって「外典」と定められている『シラ書』の名が引き合いに出されているが、新約聖書に関する言及は一言もない。

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 やはり様々なバイアスの影響があり得る領域なので、慎重な検証が必要ではないかと思う。私個人も、読み慣れた旧約聖書とは全く異なるその構成と、私にとって未知のラビたちの言葉や解釈に付与されている権威に、ある種のとまどいと驚きを感じているので、早急な判断を避けて検証できれば、と思っている。