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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ネットゥーノ広場での伝道イベント

現代福音宣教の問題点 教会 カトリック教会関連

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 夕方、ボローニャ市の中心にあるネットゥーノ広場(ジャンボローニャ作の噴水があり、そのネプチューンの像がもつ銛の先は、1914年の創立された自動車会社マセラーティ社のロゴに使われている)に、カトリック教会がオーガナイズした伝道のためのテントが設置され、中で賛美が歌われ、ミサが行われていた。テントの前では、司祭と思われる人が告解を聴いているところであった。

 今までカトリック教会がこのようなテントを公共の広場に設置したのを見たことがなかったので、とても驚いてしまった。カトリック教会は少なくともイタリアの都市部では、100メートルごとに教会があると言っても大袈裟ではないほど多くの教会を持ち、それぞれの場所で一日に何度もミサを行っている。そのようなカトリック教会の人々が、町の広場に出て行って、「Gesù è qui / イエスはここにおられる」と手書きで書いたプラカードを掲げる必要を感じたということは、私にとって大きな教訓に思えた。

 というのも、イタリアでは今までこのような積極的な伝道活動は、どちらかというと福音派、特にペンテコステ派の教会のみによって行われてきたからである。しかしここ数年で状況が変わってきており、少なくともボローニャでは、ペンテコステ派が年々、自閉的・自己満足的になり、路傍伝道や広場における伝道集会を行う教会はほとんどなくなってきている。その代わりかどうかはわからないが、今まで福音派の信徒たちが路傍伝道していたところに、エホバの証人が移動式のトラクトケースのようなものを使って「宣教」するようになり、最近では多くの街角で下のような証人を見かけるようになった。

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 残念なことに以前は伝道に熱心だった信徒たちが、エホバの証人と間違えられるのを嫌がり、外へ出て行くことを渋ったり、恥ずかしがるようになってしまった。そして自分たちの教会の建物の中で、自分たちの伝統の礼拝で満足し、自らに課された為すべきことをしていない良心の呵責を、様々なイベントを企画することや、さらにひどい場合はエホバの証人などを批判することで誤魔化す誘惑に晒されているのである。

 このような現状は、『黙示録』の中にラオデキヤの教会の霊的状態に共通するものがあると言えるかもしれない。生ぬるい自己満足の中でくつろぎ、いつの間にか主イエスが教会の外にいて語りかけているのに気づいていない。

黙示録3:14-22

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。

22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

 教義的に聖書が啓示する真理とは異なる教えを信奉していると私たちが判断する宗派が、どのような動機で何を目的に宣教活動しているかを批判したところで、自分たちの状況が変わることはない。自ら為すべきことと信じていながらもそれを為していないのは自分たちであり、問題はそこにあるのだから。

 勿論、宣教活動やそれに付随するイベント自体はオーガナイズさえすれば誰でもできることである。しかしその活動の源泉が主の御前で問われることを知っているがゆえに、ただ単に状況に差し迫られ動き出すのではなく、祈りのうちに宣教を命令した方、御子イエスとの交わりによって、聖霊の力と導きを受けて一人一人の魂に対して救いの福音を伝えていこう。それは私たち自身が救われた日からよく知っていることで、大がかりな企画や面倒な手続きなど必要としない、まさしくキリストの香りと呼べるものなのだから。

Ⅱコリント2:14-17

14 しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。

15 わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。

16 後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。

17 しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。