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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の恵みは私たちを教え、十字架は私たちを聖別する

テトス2:11-14

11 すべての人を救う神の恵みが現れた。

12 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。

14 このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。 

 ここで使徒パウロは、「全ての人を救う神の恵み」が私たちに「教えている」と書いている。一体、神の恵みは何を教えているのだろうか。

  • 不信心とこの世の情欲とを捨てること
  • 慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活すること
  • 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むこと

 これらの目的のために、神の恵みが「私たちを導く」と書かれているのである。

 また14節には、主イエス・キリストの犠牲の死、つまり十字架の目的が啓示されている。

  • わたしたちをすべての不法からあがない出して、
  • 良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するため

 これは自分の教会の人数を増やすために、主イエス・キリストの十字架による恵みの都合のいいところだけ利用し、『ありのままのあなたでいい』をモットーに、「耳障りのいい話」で罪びとを罪の中に安住させる教えとは、根本的に異なる真理である。

 私たちがありのままの自分で神に受け入れられるとは、神の御前に罪を悔い改めた者が、何の功徳もない状態で、罪の赦しを受けることができるということであり、罪を認めない人間がそのままでいても何も問題がない、という意味では決してない。

 上記のような「部分的な福音」、つまり「異なる福音」を教える教会の中で、様々な肉の働きによるスキャンダル(それは教える側と教えを受ける側の双方に現れる)が絶えないのは、当然である。

 「風は思いのままに吹き」、神はその恵みによって、たとえどのような罪を犯してきたものでも、悔い改めご自身を信じる者の誰でもに新しい命を与えてくださる。しかし、「新しく生まれなければならない」のである。

ヨハネ3:3-8

3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。

6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 

 神の恵みを放縦な生活に変え、実質的に主イエスを否定する不信仰な教え(ユダ1:4)に惑わされてはならない。

 

追記:

ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日 - 1945年4月9日)

 「安価な恵みは、我々の教会にとって許すべからざる宿敵である。我々の戦いは今日、高価な恵みをめぐって戦われている。」

 「安価な恵みは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒律抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた、人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである。」