an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

真の召命

 ある日、かしらは手に向かって言った。「たて琴を弾き、疲れている魂を癒しなさい。」

 手は困惑しながら、かしらに答えて言った。「私はどうすればいいか知りません。そんなこと、したことがないのでできません。」

 かしらは「心配することはない。私に信頼し、私の言うままに動きなさい」と言って手を励ましたので、手は恐る恐るたて琴に触れると、何とも不思議な響きによって聞いている人々の心は平安に包まれた。

 かしらは疲れた魂をいるところはどこでも出向き、そのたびに手に命じてたて琴を奏で、多くの魂を癒した。

 多くの日が過ぎ、手は自分の前にいる魂に合わせて、かしらがどんなメロディーを選ぶかすぐわかるまでになっていた。

 しかしある日、かしらは突然手に「私が癒した魂らが、共に生活している家のトイレが詰まって、流れなくなった。あなたが行って修理しなさい」と命じた。

 しかし手は、「いや、あなたはたて琴を弾いて疲れた魂を癒すために私を選んでくれました。詰まったトイレを直すためではありません」と答えた。

 かしらは手に答えて言った。「あなたがなすべきことは、私が決めることです。私に信頼し、命じられたことをしなさい。」

ルカ17:7-10

7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。

8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。

9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。

10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。 

 「自分がやりたいこと」や「やらなければいけないと思っていること」をするのが召命ではない。たとえそれがどんなことであろうと、主イエスが命じることを当然のこととして為すことが、真の召命である。

 そこには誇示も自慢も功徳もない。あるのは、主イエスの御心だけをひたすら求める心である。