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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あなたも、彼を警戒しなさい。

終わりの日の警告 知恵 証し

Ⅱテモテ4:14-15

14 銅細工人のアレキサンデルが、わたしを大いに苦しめた。主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう。

15 あなたも、彼を警戒しなさい。彼は、わたしたちの言うことに強く反対したのだから。 

 この聖句は、使徒パウロがローマの牢獄で殉教を意識しつつ、エペソの教会を牧会していた同労者テモテに呼びかけた言葉である。この銅細工人のアレキサンデルについては、おそらく使徒行伝19章の「エペソ騒乱の時のユダヤ人アレキサンデル」、また後に「背教したアレキサンデル」と同一人物ではないかと言われている。

使徒19:33-34

33 そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。

34 ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。 

Ⅰテモテ1:19-20

19 ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。 

20 その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである。

 おそらく使徒パウロがこのアレキサンデルの無秩序な信仰を叱責したことを逆恨みし、使徒パウロたちに対して強く反対したのだろう。福音伝道活動において死の危険を何度も通ってきた使徒パウロにして「わたしを大いに苦しめた」と言わせる程だから、如何にその「反対」が悪質で邪悪なものだったがわかる。

 しかし使徒パウロは彼自身、アレキサンデルを汚い言葉で罵るようなことは決してしなかった。むしろ生きる者と死せる者を正義によって裁く審判者なる神にすべてをゆだね、「主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう」と言った。

 パウロは、エペソで伝道者として仕えていたテモテに「アレキサンデルは私に悪を働いたけれど、あなたは彼を愛をもって受け入れてあげなさい。赦してあげなさい」とは書かなかった。「あなたも彼を警戒しなさい」と忠告しているのである。それはアレキサンデルが言動を身をもって知っていたからである。

 私のブログにコメントを寄稿してくる「藤江一也」という人物がいる。本名であるかどうかは知らないが、IPアドレスによれば、東京の千代田区内神田に住んでいるか働いているかしている人物のようである。

 彼は「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」なるものを信奉しているが、私は誰がどのような信条を持っていようが、それは本人の自由な選択として与えられていると考えている。つまり、私が主イエス・キリストを救い主だと信じる自由が与えられているのと同じ程度に、すべての人に何かを信じる、もしくは信じない自由が与えられているからである。

 勿論、私は聖書が真理を啓示していると信じているし、その啓示に基づいて「主イエスが唯一の救いの道である」と確信し、このブログにおいても実生活におけるのと同様、主張し続けている。ただこの私の確信は、他の人の自由を侵害するものでは決してない。言い換えるなら、私は誰かが聖書の教えを信じるように強要したりはしないし、その教えを反対・否定するからと言って、その人を口汚く罵ったりは決してしない。

 第一、何を信じているかにかかわらず、その信心がその人の人格をより良くせず、逆に自分の信念を受け入れない人々を侮蔑し、文面という、ある意味間接的な表現手段であるにも関わらず、内的衝動を抑制できずに口汚く罵るしかできないのだったら、一体何のための信仰なのだろうか。

ヤコブ1:26-27

26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 このような根拠をもとに、私は読者の方々、特に自分の信仰を何かしらの手段でインターネットに証ししている方々に、メッセージを残したい。

「藤江一也という人物に警戒しなさい」。

 以下の添付した記事のコメント欄に、彼と私の対話がすべて記録されている。

 ちなみに彼の一番最近のコメントは以下の通りである。

 藤江 (110.66.43.67)
砂糖の害をまとめてみました。 http://blog.goo.ne.jp/b5550/e/259578d39ca176bfed27d54146b4ea67

これだけの化学的障害を設け人体を滅ぼそうとする存在に「神は愛」 などと油断して抱きつかせる思想は全くの意味不明ですね。 努力を免除する現実から乖離した神を振りかざしてはいるも 貴方の背後に神など居る形跡はなかったし、有るのは自己愛(悪魔)だけ 他力にすがる信仰などサトウキビ農園で黒人奴隷に鞭打つ程度の教育効果がせいぜいだろう。 貴方は生まれ変わった方が良いかも知れませんね。 人間が腐りきってしまって、修復ができなくなった様ですね。

あっこれは未承認コメでいいです。

シチリア出身のシドッティ宣教師について

 他にも承認していないコメントもあるが(承認/未承認の最終的決定権は、ブログ主にあるのは当然である)、公開している分を読めば、私がなぜこの様な記事を書いているか理解していただけると思う。(特に『『福音書は「贖罪」を語っていないのか(3)』のコメント欄) 

 ちなみに彼は他の信仰者の方々のブログにもコメントを寄稿しているようである。

 彼が「最後」と言った後もコメント投稿が続き、未承認扱いし回答していなかったのだが、このようなケースのより建設的で秩序ある対処を探していた。

 私自身は使徒パウロに倣って、「主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう」と思いで彼に対して最後のコメントを書いたので、彼が悔い改め、和解を求めてくる時まで彼に回答するつもりはない。

 人にはできないことでも神には可能である。

 しかしそれまで「あなたも、彼を警戒しなさい。」