大患難期の目的
よく「『大患難期前携挙説』は、神が備える患難を通らないで自分たちだけ救われたい、という不信仰で卑怯、ご都合主義的考え方だ」という意見を聞くが、果たして聖書的な意見だろうか。
まず第一に、聖書は信仰者が試練や患難、迫害を通ることを明示している。
ヨハネ15:18-21
18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
ヨハネ16:33(新改訳)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
Ⅱテモテ3:12
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
そして時代や環境によって程度の差はかなりあるとはいえ、一人一人の信仰者の経験が、これらの聖書の言葉を証している。信仰者の中で、一体だれがそれを否定するだろうか。
また恵みの時代に生きる教会に対して、外側からの迫害や患難だけでなく、内的な罪に対する神の裁きがあることも啓示されている。
Ⅰペテロ4:17
さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
実際、使徒行伝5章にはすでにアナニヤとサッピラの例によって、教会に神の裁きが下ったことが記録されている。
しかし注目すべきは、ペテロが「神の家に対する裁き」と、「神の福音に従わない人々に対する裁き」を段階的に分けていることである。
使徒パウロも信仰者に対する裁きには「主の懲らしめ」つまり「矯正・教育・訓練」という目的があり、神の恵みを受け入れないこの世に対する裁きとは、その目的において異なることを明示している。
Ⅰコリント11:29-32
29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
31 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。
32 しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。
『へブル人への手紙』もその真理を啓示している。
へブル12:5-11
5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
6 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
だから恵みの時代における「神の裁き」とは、あくまで魂の救いという最終目的をもっているのである。
しかし大患難期は、まさに不信仰な世界に対する神の不可逆的な裁きである。それは恵みの時代の患難とは、規模も質も目的も異なる、唯一で最終的なものである。そのあまりの厳しさのゆえ、大患難期に召命を受ける選ばれた者たちも、その時期が縮められないのなら救われる者がひとりもいないだろう、とさえ言われているほどである。
マタイ24:21-22
21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
そして今の時代に頑なになっているイスラエルの民を「裁きによって贖う」のは、神のいにしえからの契約である。
イザヤ1:21-27
21 どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。
22 お前の銀は金滓となり/良いぶどう酒は水で薄められている。
23 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。
24 それゆえ、主なる万軍の神/イスラエルの力ある方は言われる。災いだ/わたしは逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する。
25 わたしは手を翻し/灰汁をもってお前の滓を溶かし/不純なものをことごとく取り去る。
26 また、裁きを行う者を初めのときのように/参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都/忠実な町と呼ばれるであろう。
27 シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。
28 背く者と罪人は共に打ち砕かれ/主を捨てる者は断たれる。
黙示録には、少なくとも三段階に「神の裁きの時の到来」が告知されることが記述されている。
- 第六の封印が解かれ、天地異変によって地上の人々が「神の怒りの大いなる日の到来」を意識する。
黙示録6:12-17
12 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、
13 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
14 天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。
- 天の御座の前における「裁きの時の到来」の宣告
黙示録11:15-18
15 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
16 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、
17 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。
18 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。
- 地に住むすべての人々に対する「裁きの時の到来」の宣告
黙示録14:6-7
6 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
大患難期に不法の者、つまり反キリストが出現すること自体、恵みの時に神の救いを受け入れなかったことに対する裁きであることが啓示されている。
Ⅱテサロニケ2:9-12
9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、
10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、
12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
このように「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」という「時」から、「神の裁きの時」へと不可逆的に移行するときが来るからこそ、聖書は「今の恵み」をいたずらに受けてはならないと戒め、「今日」と言える日に心を頑なにしてはならない、と告げているのである。
Ⅱコリント6:1-2
1 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
へブル3:12-13
12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
『へブル人への手紙』の筆者が、「もしわたしたちが」と仮定し、信仰者たちが罪を犯し続けるなら神に逆らう者たちに対する裁きと同じ裁きを受けることになる、と非常に厳しい言葉で同胞を戒めているのは、まさに神の最終的な裁きの「御手の中に落ちること」の恐ろしさを霊的に知っていたからである。
へブル10:26-31
26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
28 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、
29 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。
30 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。
31 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。
このように、今の恵みの大きさ(もし主なる神が今、私たちの一つ一つの罪に対して最終的な裁きを行ったら、誰が生きていられるだろうか)と、その恵みを拒否する者に対して下される神の計画とその目的(特に大患難期後半期について)を知れば、冒頭のような表層的な意見は決して口から出ることはないはずである。