an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

食物の教えに関して

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Ⅰコリント10:25-33

25 すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。

26 地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。

27 もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。

28 しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。

29 良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。

30 もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。

31 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。

32 ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。

33 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

 使徒パウロがギリシャのコリントに住んでいるギリシャ人信徒に対して「すべて市場で売られている物」という時、字義通り、「コリントの町にある市場で売られている全ての物」を指していたのだろうか。それとも「コリントの町にある市場で売られている物のうち、モーセの律法によって清いと定められている食物のすべて」と言いたかったのだろうか。ちなみに古代ギリシャのアテネにおいては豚肉(子豚一匹が3ドラクマで売られていた)やウナギが食べられていたことが記録されている(Pesce e carne per gli antichi Greci)。

 同じように「不信者に食事に招待され、その食卓で自分の前に出される物」について語る時、それは「コリントの町に住んでいるギリシャ人の不信者が、モーセの律法によって清いと定められている食物の中から選んで食卓に出してくれた物のすべて」と言いたかったのだろうか。

 視点を変えて考えてみよう。あなたが住んでいる日本の町の市場やスーパーで、豚肉やウナギ、エビ、カニなどが「モーセの律法に従って」販売されていないところを知っているだろうか。

 また聖書の知識を全く持たない一般的な日本人の友人にバーベキューや食事に招待されたとき、あなたはその友人が「モーセの律法に従って」豚肉やエビを用意しないことを期待したり、強要したりできるだろうか。

 答えは明らかである。

 勿論、同じ食事の席に豚肉を食べないイスラム教徒やユダヤ教徒がいるならば、彼らの良心に合わせてそれを食べないことは良いことである。同様にお酒を飲まないと決めている信仰者の前では、お酒を口にしないことは信仰者として最低限のマナーである。

ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。 

Ⅰコリント8:8-13

8 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

9 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

10 なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。

11 するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。

12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。

13 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。  

ローマ14:1-6

1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。 

ローマ14:20-23

20 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。

21 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。

22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。

23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。  

 まさにキリストの十字架によってこの世に死に、真理によって自由を与えられているからこそ、食べないことにも食べることにも、人間の規定や教によらず、状況に応じて聖霊の導きに従えるのである。

 しかしもし誰かがあなたに「信仰者は、モーセの律法によって許されているものしか食べてはいけない。食べれば律法を背くことになる」と主張するならば、決してその強要に屈服してはならない。あなたはキリストの恵みの真理に留まるべきである。

 以下に引用した聖句は、飲食に関する真理を啓示している。

マルコ7:18-19

18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。

19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。 

ローマ14:17

神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

Ⅰコリント8:8

食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 

コロサイ2:20-23

20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、 

21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 

Ⅰテモテ4:3-5

3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。 

へブル13:9

さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。

 

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