an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

黙示録3:10に関する検証

終末の時代に起こること――キリスト者の携挙

教会は患難のただ中で守られる

 聖書を調べてみましょう。第一に、"再臨は二回、あるいは二段階である""携挙は患難時代の前である"と明確に述べている聖句が、聖書中どこかにあるでしょうか。
 どこにもありません。
 再臨二段階論者は、自分の説の根拠として幾つかの聖句をあげているものの、そのいずれもが、明確な形で彼らの説を支持するものではありません。複雑な解釈と憶測を加えて、ようやく彼らの説を擁護しているにすぎないのです。
 再臨二段階説および患難前携挙説が人々に説かれるとき、最も引用された聖句は、ヨハネ黙示録三・一〇でしょう。
 「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」。
 この聖句について、再臨二段階説の人々はこう注釈します。
 「『試練の時には・・・・守ろう』の『には』の原語はεκ(から)であり、これは『試練の時から・・・・守ろう』と訳される。だから教会は、来たるべき試練の時である患難時代の前に、地上から携挙され、取り去られて守られるであろう」。
 この主張は本当でしょうか。しかし、もし本当なら、私たちの手元にある原語に忠実な聖書訳(新改訳や口語訳等)が、いずれも「試練の時から」と訳していないのは一体なぜでしょうか。
 いや、ここの訳は「試練の時には」で良いのです。この聖句の意味は、教会が患難時代の前に地上から取り去られることによる守りを言っているのではなく、教会が患難時代の"ただ中で"守られる守りを言っているのです。
 ギリシャ語学者は、もしこの聖句が患難前携挙を言おうとしていたならば、εκよりはαπο(~を離れて)が用いられたであろうと述べています。また米国の代表的神学者メリル・C・テニーも、こう述べています。
 「ギリシャ語成句tereo ek(守る)は、他にはヨハネの福音書一七・一五にのみ使用されており、肉体を分離させることによる守りではなく、悪の攻撃を免れさせる守りを意味している」。
 テニー博士がここに引用したヨハネ一七・一五は、次の言葉です。イエスは祈って言われました。
 「彼らをこの世から取り去って下さるようにというのではなく、悪い者から守って下さるようにお願いします」。
 この「守って下さるように」は、ギリシャ原語において、先の「(試練の時には)守ろう」と同じ言葉なのです。このように、「試練の時には・・・・守ろう」は、教会を世から取り去ることによる守りではなく、世の"ただ中で"守る守りであることがわかります。
 このように、再臨二段階説・・患難前携挙説の"もっともらしい聖書的根拠"としてあげられている黙示録三・一〇も、実際は患難前携挙説を否定するものであり、むしろ患難末期携挙説を支持するのです。

(引用終わり)

 筆者である久保有政氏は、「セコンドチャンス論」や「日猶同祖論」を信奉しているが、その点については今回は触れない。ここでは厳密に、彼の主張する黙示録3:10の解釈について検証してみる。

 まずギリシャ語では、どの底本(Stephens 1550 Textus Receptus、Scrivener 1894 Textus Receptus、Byzantine Majority、Alexandrian、Hort and Westcott)も「τηρησς εκ」という表現を使っている。問題になっている前置詞「ek」そのものは、英訳では「from, out, after, by, among」などと非常に広範囲の訳し方できるのものであり、一つの意味に限定することはできない。

 久保氏は新改訳や口語訳を引き合いに出し、以下のように主張しているが、

私たちの手元にある原語に忠実な聖書訳(新改訳や口語訳等)が、いずれも「試練の時から」と訳していないのは一体なぜでしょうか。

同じ論理で「私たちの手元にある原語に忠実なラテン語訳や英語訳、イタリア語訳聖書が、いずれも【試練の時から】と訳しているのは一体なぜでしょうか」と問うことも必要である。

ウルガータ訳(ラテン語)

quoniam servasti verbum patientiae meae et ego te servabo ab hora temptationis quae ventura est in orbem universum temptare habitantes in terra

 

英語訳

King James Version

Because thou hast kept the word of my patience, I also will keep thee from the hour of temptation, which shall come upon all the world, to try them that dwell upon the earth.


American Standard Version
Because thou didst keep the word of my patience, I also will keep thee from the hour of trial, that hour which is to come upon the whole world, to try them that dwell upon the earth.


Bible in Basic English
Because you have kept my word in quiet strength, I will keep you from the hour of testing which is coming on all the world, to put to the test those who are on earth.


Darby's English Translation

Because thou hast kept the word of my patience, I also will keep thee out of the hour of trial, which is about to come upon the whole habitable world, to try them that dwell upon the earth.


Douay Rheims

Because thou hast kept the word of my patience, I will also keep thee from the hour of the temptation, which shall come upon the whole world to try them that dwell upon the earth.


Noah Webster Bible

Because thou hast kept the word of my patience, I also will keep thee from the hour of temptation, which shall come upon all the world, to try them that dwell upon the earth.


Weymouth New Testament

Because in spite of suffering you have guarded My word, I in turn will guard you from that hour of trial which is soon coming upon the whole world, to put to the test the inhabitants of the earth.


World English Bible

Because you kept the word of my patience, I also will keep you from the hour of testing, that which is to come on the whole world, to test those who dwell on the earth.


Young's Literal Translation
Because thou didst keep the word of my endurance, I also will keep thee from the hour of the trial that is about to come upon all the world, to try those dwelling upon the earth.

 

Diodati(イタリア語)

Perciocchè tu hai guardata la parola della mia pazienza, io altresì ti guarderò dall'ora della tentazione che verrà sopra tutto il mondo, per far prova di coloro che abitano sopra la terra.

 

Riveduta(イタリア語)

Perché tu hai serbata la parola della mia costanza, anch'io ti guarderò dall'ora del cimento che ha da venire su tutto il mondo, per mettere alla prova quelli che abitano sulla terra.

 

Nuova Riveduta(イタリア語)

Siccome hai osservato la mia esortazione alla costanza, anch'io ti preserverò dall'ora della tentazione che sta per venire sul mondo intero, per mettere alla prova gli abitanti della terra.

 

 そしてヨハネ17:15「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」に関してだが、この祈りを主イエスが父なる神に捧げたのは、十字架の死の直前の最後の晩餐の夜の時であり、復活後に弟子たちに聖霊を注ぎ、全世界の福音宣教を命じることになるのだから、「彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」と祈ったの当然である。なぜご自身の証人として世に遣わす弟子たちを、この世から取り去るように祈らなければいけないのだろうか。従ってこの聖句を文法上の理由で大患難期に適用するのは、文脈上全く適切ではない。

 また大患難期、特に後半期において、反キリストが聖徒に戦いを挑んでこれに勝つことが許され、獣の印を受けることや獣の像を拝むことを拒否する者が必ず殺されることを考慮すれば、久保氏が主張する「試練の時における神の守り」は、決して「聖徒は守られて地上に残り続ける」という意味ではなく、「大患難期の反キリストの迫害によって、殉教という形でこの世から取り去られることがあったとしても、主は聖徒たちの信仰を守ってくださる」ということを意味していることが理解できる。

黙示録11:7

そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。 

黙示録13:5-7

5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

6 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。

7 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

 それゆえ、黙示録3:10の【εκ】の解釈をもとに「教会が大患難期に地上に残るか、否か」を議論すること自体、ナンセンスであることが理解できる。

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 そして何より、患難期末期再臨説によれば、上図のようにキリストの空中顕現と地上再臨がほぼ連続して起こると解釈している。しかし問題は、大患難期前半においても、また後半期においても、天の御座の前で地上から贖われた人々が賛美していると聖書に啓示されていることである。

 例えば、黙示録7章には、第七の封印が解かれる前に、天において「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち」、大声で賛美しているのである。彼らは「大きな患難をとおってきた人たちであって(KJV These are they which came out of great tribulation)、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」とある。

黙示録7:9-17

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 繰り返すが、この天の啓示は第七の封印が解かれる前の時点のことである。久保氏が主張するように、黙示録3:10が「教会が大患難期の中で守られ地上に残ること」を約束しているのなら、なぜ封印が完全に解かれる前の段階で、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆」が、十四万四千人のイスラエル人の様に地上に残されず、天の御座の前で賛美しているのだろうか。

 また黙示録14章においては、人の子が雲の上から地上の刈り取りをする前に、天上では十四万四千人の人々が賛美をしているのである。

黙示録14:1-5

1 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。

2 またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。

3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。

4 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。

5 彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。 

黙示録14:14-16

14 また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。

15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。

16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。 

 このように久保氏は「ギリシャ語学者」(誰?)や「米国の代表的神学者メリル・C・テニー」(何を代表している神学者だろうか)の権威を借り、「もっともらしい聖書的根拠」を引き合いに出して自論を主張しているが、反駁の余地のない確定的な終末論ではないことは読者の方々にも理解していただけると思う。

 

追記(2016年6月1日)

Ⅱペテロ2:6-10a

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。

8 (この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。)

9 こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、

10a 特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。

 9節の「試錬の中から救い出し」の原文は「εκ περιρασμυ」、英語訳は「out of temptations」もしくは「from temptation」で、「私たちの手元にある原語に忠実な聖書訳(新改訳や口語訳等)」も、「εκ」を「から」と訳している。

 黙示録7:14の「大きな患難をとおってきた人たち」も文法上同じ表現で、「ercomenoi ek thς qliyewς」、英訳にすると「came out of great tribulation」(KJV, ASV)もしくは「came through the great testing 」(BBE)とある。

黙示録7:14

(口語訳)

わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

(文語訳)

我いふ『わが主よ、なんぢ知れり』かれ言ふ『かれらは大なる患難より出できたり、羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり。 

 

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