『ローマびとへの手紙』(43)来るべき者の型であるアダム
ローマ5:12-14
12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
使徒パウロは、この部分から「アダムとキリスト」を対比させて、「罪の報酬である死」と「恵みの賜物による救い」について解説を始めている。12節の「ひとりの人」とは、アダムのことであり、14節には彼が「来るべき者の型」であると啓示している。これは非常に重要な点である。「来るべき者」とは、勿論、御子キリストのことであり、「アダムはキリストの型である」と言っている。
これは、創世記の人間創造の啓示をもとに考えると興味深い。
創世記1:26-27
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
「かたち」と和訳されている「צלם tselem」は、「像、流し込む型」という意味をもち(ちなみに語根「צל」は「影」という意味である。参考「これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。」コロサイ2:17)、「かたどって」と和訳されている「דּמוּת demûth」は、「モデル、似姿」という意味をもつ。
まさに鋳造で彫刻を造るプロセスをイメージして啓示されているようである。
御子の「かたち」に「型」として創造されたアダムに、神の霊が「吹き込まれ」、アダムは生きたものとなった。
創世記2:7
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
「型」であるアダムは、命を与える神の霊がなければ、空虚な「型」に過ぎないのである。だからアダムが罪を犯した時、主なる神は「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」と宣告したのだった。
アダムは神の霊によって「生きた者となった」が、御子は命の霊そのものであり、命を与える者である。
Ⅰコリント15:45
45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
ヨハネ5:21
すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。
Ⅰヨハネ1:1-2
1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
その御子は、真理の言葉を通して、御霊によって、罪のうちに死んでいた私たちに生かし、真のいのちを与えてくださる方である。
ヨハネ6:63
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
ローマ8:10
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。