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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の御前と、審判者キリスト・イエスの御前にいるという意識

Ⅱテモテ4:1-5

1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。

2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。

3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。 

 例えば、ピアノを学んでいる学生が教室で一人で練習しているところに、突然世界的に有名なピアニストが入ってきて、教室の隅の椅子に黙って座ったことを想像してみてほしい。その学生はそのピアニストを見て、慌ててあいさつするために練習を中断しようとするが、ピアニストはそれを遮り、練習を続けるように促す。その学生の演奏が、それまでよりも緊張感をもって行われたことは当然だろう。

 そのピアニストが来るまでは、頭の中に全く関係ないことを考えながら、何となく練習していたかもしれない。しかしピアニストが目を閉じて自分の演奏を聴いているのを見たら、同じようにはできないだろう。一音一音、丁寧に心を込めて弾くことだろう。「いいところを見せたい」という誘惑もあるかもしれないが、それよりも自分が取り組んでいることに良いにしろ悪いにしろ、正当な評価が下されることが大きな力になることを知っているから、今の自分の100%を出そうと努力するだろう。

 一人のキリストの証人として、普段の生活において誰かと話す時、教会において兄弟姉妹に奉仕をする時、SNSやブログにおいてコメントや記事を書く時、「神の御前と、生きている者と死んでいる者とを裁くべきキリスト・イエスの御前」に絶えずいるという意識は、なくてはならないものだろう。そこから自分の責務、つまり「何を行い、何を伝えるか」という責任感が派生してくるからである。

 たとえ人々が「自分勝手な好みに任せて」、「耳障りの良い話」や「作り話」を求めているとしても、そしてその人々を喜ばせことによって自分もその人々の評価を受け、安心できるとしても、主なる神が自分の御前に立ち、自分に要求していることは、「時が良くても悪くても」決して変わることはないものである。それは、ある人々が「聞きたくない」「ウンザリ」「つまらない」と拒否反応を示したとしても、「御言」つまりキリストの福音の「真理」や「健全な教え」を伝えることである。

 その同じ真理の力によって、混乱と背教の時代に生きる自分に対しても、キリストの再臨と御国に入る希望が恵みによって与えられている。繰り返し心に留めるべき事実である。

 

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