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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(40)今、十字架から注がれる神の愛

 ローマ5:5-8

5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。

7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。

8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 

 「神の愛がわたしたちの心に注がれている」と書いてあるが、もし自分自身の感覚で判断するなら、まるで正反対の思いに持つ時が多いのではないだろうか。「神の愛が注がれているって。でも私には全然喜びがない」とか、「礼拝で賛美している時とかは感じるけど、普段仕事していると、とても孤独で渇いている」とか、色々な思いが噴き出してくるかもしれない。

 しかし個人的な経験からも言えることだが、そのような感覚的な思いに囚われるとき、8節の「神はわたしたちに対する愛を示された」という真理に私たちの注意を向けるべきである。新改訳では「神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」と訳し、原文においてそうであるように過去形ではなく、現在形を使っている。つまり御子イエスの死において、神はご自身の愛を二千年前に示しただけでなく、今現在も明らかに示しているのである。

 だから私たちの信仰の目が御子の十字架に注がれるとき、「信仰のパイプ」が十字架という「神の愛の尽きない源泉」とつながり、その愛が豊かに私たちの渇いた心に注がれるのである。

 これもまた人間的努力によらず、「聖霊によって」為される神の働きである。聖霊が御子の贖罪の死について証しすることによって、私たちの心を十字架に向けさせ、同じ聖霊が神の愛を私たちの心に注ぐのである。