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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」

黙示録1:17-18

17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、

18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。 

 「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」おそらく信仰者にとって慣れ親しんだこの言葉は、しかし驚くべき内容を持っている。まさに死から復活した主イエス・キリストだけが口にすることができる言葉である。

 「永遠の御子」(へブル13:8)であり、「永遠の大祭司」(へブル7:24)そして「命の君」(使徒3:15)である方が、「わたしは死んだことはある」と言っているのである!「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」のでご自身のうちに死に値するものは何も持っていなかったが、すべての人の罪を背負って十字架の上で死を味わい、三日三晩、死の中に留まったという驚くべき事実。

 またその神の命の力が、本来永遠である死を「三日三晩」という時間の境界線の中に限定し、永遠の命の中に包括してしまった。その同じ命の力をもって、御子は時間の中に生きる私たちに、今、「見よ、世々限りなく生きている者である」と語りかけているのである。

 それは一年に一度の復活祭の祝辞ではない。たとえ私たちが使徒ヨハネのように流刑の島において、たった一人、「死んだように」横たわっていたとしても、また悲しみと失望によって私たちの目が閉じていたとしても、主イエスは私たちの近くにきて、その右手を私たちの上におき、「恐れるな。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」という命の言葉によって、私たちの現状を永遠の命の中に置き、神の視点からすべてを見る光を与えてくれるのである。