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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(38)「信仰による義認」と「聖化」

ローマ5:1-5

1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 「わたしたちは信仰によって義とされた」

 イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる者が、神の前で「義とされる」という、いわゆる「信仰による義認」は、信仰者が地上の生活において「聖化」つまり「神聖な神に従うものとして聖さを求めること」を必要としないという意味ではない。神は御子の贖罪によって信じる者をすべての罪を赦し、罪に定めることはないことを約束しているが、それは「信じる者が罪を犯さなくなる」という意味でもない。

 これは非常に重要なポイントである。なぜなら、もし主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられた贖罪を信じることによって、その時点で救いが完成するのなら、聖書に啓示されている「聖化の絶対的必要性」や「救いの達成に対する献身」は意味を失ってしまうからである。聖書の書かれているすべての勧告は不必要なものとなる。

  またもし私たちが信仰による義認と同時に、神に御前における完全性を手にしているとしたら、他の信仰者の霊的状態をとやかく言う理由もないだろう。私たちにとって「霊的でない」「真理を誤解している」と思える人々も、私たちと同じ信仰によって「完全」になっているはずだからである。たとえ現実は全く逆のことを示しているとしても、である。

 現実はあまりにも明らかである。私たちは神の愛による修正と清めを絶えず必要としている、ただ恵みによって生きている罪びとなのである。

へブル12:14-15a

14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

15a 気をつけて、神の恵みからもれることがないように 

Ⅰペテロ1:15-16

15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 

16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 

 勿論、聖化は義認と同様、神に対する信仰によって与えられるものであり、神のわざである。

ピリピ2:12-13

12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。

13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 

Ⅰテサロニケ5:23-24

23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。 

 この「信仰による義認」と「信仰による聖化のプロセス」を正しく理解することは、非常に重要である。新しく生まれる体験をしながらも罪を犯してしまったことで必要以上に失望し、信仰を失ってしまうようなことがないため、またその逆に、新生体験によって自分が「どんな状況においても決して罪を犯すことのないほどの霊性」を手に入れた、と勘違いしないためである。

 確かに私たちは信仰によって義とされ、神と平和な関係を与えられ、霊的に新しく生まれたことによって神の子とされた。しかしそれは、私たちがすでに地上において神の御子イエス・キリストのように聖くなり、罪を犯さなくなったという意味ではなく、新生体験と同時に聖化が一瞬で完成したということでもない。

Ⅰヨハネ3:2-3

2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。

3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。